パコ・ラバンヌが66年、ブランド「パコ ラバンヌ」を設立。2023年7月、ブランド名を「ラバンヌ(rabanne)」に変更。
ラバンヌ(rabanne)は、ファッションブランド。
創業者のパコ・ラバンヌは、1934年 スペイン、バスク地方生まれる。父は軍人でフランコ将軍を相手に戦地を転々としていた。(最後は捕らえられて銃殺される)5才の時、内乱でフランスに亡命。ピカソの絵で有名なゲルニカへの空爆(スペイン内戦)を経験し、その後に、スペインを離れた。ラバンヌはスペインで起こった悲劇、恐怖を後にも引きずっている。
17歳でパリに渡る。52年、美術学校に入学、建築学を学び、そこで後のテーマにもなる素材との出会いがあった。彼は硬質の無機素材に魅せられたという。ラバンヌの中では、その幾何学的で硬質な素材に美しさを見出す。ここから有機的な柔らかい素材を相手にした、パコ ラバンヌなりの手法が生まれる。
生活費を稼ぐために、アクセサリーデザインをしては、バレンシアガ、クリスチャン ディオール、ジバンシィ、シャネルなどのメゾンに売って生きていたという。また特殊な素材で作ったボタンやイヤリングを開発し、家族で製造していた。こうして従来のやり方にない、パコ ラバンヌの工学技術的な手法が磨かれ、業界内で一目置かれる存在となる。また、服(アパレル)のデザインも徐々に取り入れ始める。
66年、ブランド「パコ ラバンヌ」を設立して、超前衛的な手法でオートクチュールデビューを果す。特殊な素材を使用して服の基本となる「縫う」という行為を否定するかのようなデザインを発表した。彼は、針と糸ではなく、ペンチや接着剤を服作りに使用した。(まさに鎧のようなドレス)
これは女性の社会進出、エクゼクティブ層への進出(女戦士)を象徴、冷笑するかのようなデザインで、世間をあっと言わせた。その後も紙を使用したものなど素材への探求を続ける。
イヴ・サンローラン、ピエール カルダン、クレージュらと共にオートクチュールを引っ張った。また、自身のデザイン活動を振り返り「新しい素材で武装したとてつもない戦い」と振り返っている。
69年、香水、後にアクセサリー、プレタポルテに進出する。
90年、デ・ドール賞を受賞。1994年、プレタポルテをクリストフ・デカルナンとオーレリィアン・トランブレーがデザインを担当。96年には香水、服飾の両部門でユニセックスのセカンドライン、パコを発表。
99年秋冬パリオートクチュールコレクションをもってオートクチュール部門の活動を停止することを発表した。
2005年、ペリー エリスでデザイナーの経験がある、パトリック ロビンソンがアーティスティックディレクターに就任。しかし、翌年の2006年、パコ ラバンヌを所有するスペインのPuig家はパコ ラバンヌのファッション部門を閉鎖することを決定。
その後は香水をメインビジネスとし、ラバンヌのアイコンであるバッグ「le69」をコム デ ギャルソンとのコラボレーションで復活させる等、ブランド再生への道を画策していた。
2011年、マニッシュ アローラがパコ ラバンヌのウィメンズファッション部門のアーティスティック・ディレクターに就任し話題になったが、2012年5月、わずか2シーズンのコレクション発表のみでアローラが辞任することが発表された。
2013年、ジュリアン・ドッセーナ(Julien Dossena)がクリエイティブディレクターに就任。ジュリアンはバレンシアガでニコラ ジェスキエールの元でシニアデザイナーを務めていた。
2023年7月、ブランド名をパコ・ラバンヌ(Paco Rabanne)からラバンヌ(rabanne)へと変更。
ブランド名の変更に伴い、初のメイクアップコレクションを発表し、グローバル・ビューティ・クリエイティブ・ディレクターにダイアン・ケンダル(Diane Kendal)が就任。同年8月より、オンラインやEMEA地域(ヨーロッパ、中東、アフリカ)のセフォラ、アメリカのアルタなどを含む一部店舗で発売される。