1969年に川久保玲がブランド「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」をスタート。1973年に株式会社コム デ ギャルソンを設立。
コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)は日本のファッションブランド。
ギャルソンのスタイルは、社会に流されることのない、自立した女性像をデザインに落とし込んだもので、従来型の女性らしさのない、ルーズなシルエットに黒などモノトーンな色を多様、孤高の女性を描いた。
また顧客向けにビジュアル誌を発行するなど、顧客とのコミュニケーションも独特で、広告や写真に登場するモデルはカメラを睨み付けるような表情だった。このようなスタイルが一部から熱狂的な支持を得て、80年代には、黒の服におかっぱ頭の女性が街中を歩き、「カラス族」と言われるスタイルを生み出した。
コム デ ギャルソンのアバンギャルドで独特なファッションはマルタン・マルジェラ(メゾン マルジェラ)、A.F.ヴァンデヴォーストをはじめとするアントワープ派のデザイナー、ジョン ガリアーノ、ヴィクター&ロルフ等の外国人デザイナーにも大きな影響を与える。世界でもっとも影響力のあるデザイナーランキングでは川久保玲はトップ5の常連となっている。
■ブランド&ライン詳細
・COMME des GARÇONS(コム デ ギャルソン:メインライン、ウィメンズ)
・COMME des GARÇONS COMME des GARÇONS(コム デ ギャルソン・コム デ ギャルソン:愛称「コムコム」)
・COMME des GARÇONS HOMME PLUS(コム デ ギャルソン・オム プリュス:メンズのコレクションライン 1984年~)
・COMME des GARÇONS HOMME DEUX(コム デ ギャルソン・オム ドゥ:ビジネススーツのライン 1987年~)
・COMME des GARÇONS SHIRT(コム デ ギャルソン・シャツ:フランス製のシャツ専門ブランド 1988年~)
・COMME des GARÇONS parfums' PARFUMS(コム デ ギャルソン・パルファム パルファム:香水の製造・販売 1994年~)
・PLAY COMME des GARÇONS(プレイ・コム デ ギャルソン:2002年~)
・BLACK COMME des GARÇONS(ブラック・コム デ ギャルソン:2009年~)
・THE BEATLES COMME des GARÇONS(ザ・ビートルズ・コム デ ギャルソン:2009年~)
・Wallet COMME des GARÇONS(ウォレット・コム デ ギャルソン:財布のブランド)
・SHOP COMME des GARÇONS(ショップ コム デ ギャルソン:コム デ ギャルソン 青山店をメインに展開。主にバッグを展開し、Tシャツ、ジャージのスウェット、蛇腹財布などもラインナップ。アイテムによっては青山店以外の路面店でも販売)
・JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS(ジュンヤワタナべ・コム デ ギャルソン:1992年~2021年)
→JUNYA WATANABE(ジュンヤ ワタナべに名称変更:2021年~)
・JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS MAN(コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン:2001年~2021年)
→JUNYA WATANABE MAN(ジュンヤ ワタナべ マンに名称変更:2021年~)
・JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS MAN PINK(コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン ピンク:2003年~2005年AW)
・COMME des GARÇONS HOMME(コム デ ギャルソン・オム:1978年~)
・eYe JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS MAN(アイ コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン:コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マンのセカンドライン 2005年~2021年)
→eYe JUNYA WATANABE MAN(アイ ジュンヤワタナべ マンに名称変更:2021年~)
・tricot COMME des GARÇONS(トリコ・コム デ ギャルソン:1981年のスタート当初は川久保がデザイン、1987年より渡辺、2002年より栗原たおが担当)
→TAO(タオ(TAO)に名称変更:2021年~)
・TAO COMME des GARÇONS(タオ・コム デ ギャルソン:2005-06AW~2011SS)
・GANRYU(ガンリュウ 2007-2017)
・CDG(シーディージー 2018-)
創業者でデザイナーの川久保玲(Rei Kawakubo)は1942年東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。旭化成に入社し、繊維宣伝部でスタイリストを経験。その後フリーランスの活動を経て「コム デ ギャルソン」の婦人服の製造と販売をスタート。1973年に株式会社コム デ ギャルソンを設立、レディースウェアの製造販売を開始。ブランド名の由来はフランス語で「少年のように」、川久保は、ファッションの正規教育を受けていない。
1975年に東京コレクション初参加。初のショーは原宿・パレフランスで行われた。同年、表参道のフロムファーストに直営店である青山店をオープン。
78年にメンズラインである「コム デ ギャルソン・オム(COMME des GARÇONS HOMME)」がスタート。
日本で成功をおさめると、山本耀司(ヨウジヤマモト)とパリに渡り、81年にパリ プレタポルテ・コレクションにデビュー。初のパリでの展示会とミニショーを行った。それ以来、パリを中心にコレクションを展開している。この年、「ローブ ド シャンブル・コム デ ギャルソン(robe de chambre COMME des GARÇONS)」と「トリコ・コム デ ギャルソン(trict COMME des GARÇONS)」がスタート。"トリコ"とは編み物やニットを指すフランス語で、当初はニットに特化したブランドとしての位置づけだった。数年後から布帛のアイテムも展開するようになった。
パリでの最初のコレクションはセンセーショナルで、賛否両論。華やかなデザインが主流だった時代に、穴の開いたセーターや、それまでモードの世界で禁欲的な色として敬遠されていた黒を用いたファッションを発表したことで、服飾の既成概念を崩したアバンギャルドで斬新な表現手法は「広島シック」「黒の衝撃」と言われ批判を受けたが、アバンギャルドかつクラッシックなスタイルは徐々にクリエイティブな若手デザイナーから受け入れられていった。
こうしてヨウジヤマモトとともに「ボロルック」と呼ばれる黒を主体とした独特のファッションで、独自の世界を作り上げていった。
コム デ ギャルソンは山本耀司、三宅一生(イッセイ ミヤケ)らと並び世界から注目を集め、80年代のDCブランドブームを引っ張り、国内外で地位を確立した。
1982年、パリ法人「COMME des GARÇONS S.A.S.」を設立し、パリ店をオープン。
84年、「コム デ ギャルソン・オム プリュス(COMME des GARÇONS HOMME PLUS)」がスタート。パリで最初のショー(1981年のはミニショーだった)と展示会を開催。
1986年、ニューヨークに「COMME des GARÇONS S.A.S.」を設立。パリのポンピドゥーセンター(近代美術館)で写真展「MODE et PHOTO」を開催。
1987年、ビジネススーツラインの「コム デ ギャルソン・オム ドゥ(COMME des GARÇONS HOMME DEUX)」、黒を中心としたライン「コム デ ギャルソン・ノアール(COMME des GARÇONS noir)」をスタート。ニューヨークのFIT(ファッション工科大学)でマドレーヌ・ヴィオネ、クレア マッカーデル、川久保玲の3人展開催。「トリコ・コム デ ギャルソン」のデザイナーが渡辺淳弥に交代。
1988年シャツライン、「コム デ ギャルソン・シャツ(COMME des GARÇONS SHIRT)」がスタート。このラインはフランス法人が設立したもので、フランス生産のシャツのみを展開。同年、「Six senseマガジン」創刊。
1989年、フロムファーストにあった青山店が現在の場所に移転しリニューアルオープン。
90年代、「黒」が世界的に使用されるようになると、色彩を代えて「赤」などカラフルな色を前面に打ち出すなど、他ブランドとは一線を引いたファッションを展開した。
1991年、コム デ ギャルソンとヨウジヤマモトが明治神宮の水泳場でメンズコレクションの合同ショー「6.1 THE MEN」を開催。
1992年、社内デザイナーだった渡辺淳弥がデザイナーを務める「ジュンヤワタナベ・コム デ ギャルソン(JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS)」が展開スタート。両国駅の旧改札口でショーを行った。
1993年、COMME des GARÇONS S.A.S.による「コム デ ギャルソン・コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS COMME des GARÇONS)」がスタート。
1994年、パリに香水の製造・販売を行う「COMME des GARÇONS PARFUM S.A.S.」を設立。2000年にはメンズ向けのフレグランスもスタート。
1995年1月にオムのコレクションでストライプのパジャマのような服を着た坊主頭のモデルが登場。これがアウシュビッツを連想させるとして多くのジャーナリストから非難を浴びた。川久保はアウシュビッツをテーマにしたわけではなく、誤解だったと言っており、一部の人々からは擁護の声も上がった。
1997年、「こぶ」が着いたようなこぶドレスを1997SSの「ボディ ミーツ ドレス・ドレス ミーツ ボディ」コレクションとして発表。ストレッチ生地の内部に羽毛を入れて、体の肉やこぶ自体が一つの身体かのようなデザインを提案して話題となる。この衣服からインスパイアされた振付師のマース・カニングハムから依頼され、川久保がマース・カニングハム・ダンスカンパニーの新作「シナリオ」の衣装と美術をデザインした。
ブランドとしてコラボレーションも積極的に行い、97年、グローブ・トロッター、2000年以降も、アライア(アズディン アライア)、フレッドペリー、コレット(セレクトショップ)などコレクションを発表したり、限定ショップを開いた。
1999年、コム デ ギャルソン青山店がリニューアルし、丸の内店がオープン。
2001年、芸術選奨受賞。「コム デ ギャルソン・ジュンヤ ワタナベ マン(JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS MAN)」がスタート。パリで初のショート展示会を行った。新しいメンズカジュアルを提案。リーバイスやザ・ノース・フェイス、モンクレール、マッキントッシュ、トリッカーズなどとのダブルネームも人気になった。
2002年、眼のついたハートのロゴがついたTシャツやシャツなどを展開するアイコニックなライン「プレイ・コム デ ギャルソン」がスタート。このロゴマークはニューヨークのグラフィックアーティスト、フィリップ・パゴウフスキー(Filip Pagowski)の作品で、ギャルソン唯一のロゴといえる。 1998年入社の栗原たおが「トリコ・コム デ ギャルソン」のデザイナーに就任。
2002年コム デ ギャルソンの福岡店と京都店がオープン。カルラ・ソッツァーニがオーナーのミラノのセレクトショップ「ディエチ コルソ コモ 」とパートナーシップを結び、青山に「ディエチ コルソ コモ・コム デ ギャルソン」をオープン。翌2003年に大阪店オープン。
2003年、ウィメンズの「コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン ピンク(JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS MAN PINK)」スタート(2005AWで終了)。「コム デ ギャルソン・オム」のデザイナーが川久保から渡辺に交代。
2004年9月、ロンドンの高級住宅街メイフェアのドーバーストリートにセレクトショップ「ドーバーストリートマーケット」をオープン。アライア(アズディン アライア)、ジバンシィ、ランバンなどビッグメゾンから、クリストファー ケインやメアリー カトランズなど若手クリエーター、TOGA、sacai、タカヒロミヤシタザソロイスト.、アンダーカバーなど日本のブランド、そして動物のはく製まで様々なものを高感度なセレクトで取り揃える。同年、世界各地に「ドーバーストリートマーケット」のゲリラショップを期間限定でオープンして話題を集めた。このゲリラショップのテーマは"カオス"。様々なクリエーターが参加し、それぞれの店を現地の学者やビジネスマンなど異業種の人が経営する実験的な店舗だった。店舗の建築にも既存の施設や廃材などを再利用した。
2004年、「ローブ ド シャンブル・コム デ ギャルソン」を「コム デ ギャルソン・コム デ ギャルソン」に統合。
2005年秋冬シーズンより、社内デザイナーだった栗原たおがデザイナーを務める「タオ・コム デ ギャルソン(TAO COMME des GARÇONS)」をスタート。パリでショーと展示会を開催。競泳水着のスピード社とコラボした「スピード・コム デ ギャルソン(speed COMME des GARÇONS)」をスタート。新宿パークタワーで「コム デ ギャルソンのためのコム デ ギャルソン展」開催。「コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン」のセカンドラインとして「eYe コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン(eYe COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE MAN)」スタート。
2006年、ジュエリーラインの「コム デ ギャルソン・パール」スタート。青山に「PLAY BOX 青山」をオープン。
2007年、プレイやウォレット、フレグランス、雑貨を中心にポケットサイズのアイテムを取り扱うコンセプトショップ「コム デ ギャルソン・ポケット(COMME des GARCONS POCKET)」を初めてオープン。
さらに、丸龍文人が手がける「ガンリュウ(GANRYU)」スタート。2017年にコム デ ギャルソン社としてのガンリュウはブランド終了(2018年にフミト ガンリュウとしてブランドが独立)。同年コム デ ギャルソン香港店がオープン。
2008年、コム デ ギャルソンの北京店、ロシア店がオープン。海外展開をその後も加速させていった。北京では「コム デ ギャルソンのためのコム デ ギャルソン展」も開催された。また、H&Mとデザイナーコラボレーションが決定。2008年9月4日、ルイ・ヴィトンとコラボレーションで、東京・南青山に期間限定ショップ「ルイヴィトン・アット・コムデギャルソン」をオープンする。
2009年、グリーンアップルのロゴがポイントの「ザ・ビートルズ・コム デ ギャルソン(THE BEATLES COMME des GARÇONS)」スタート。同年東京・表参道の複合施設「GYRE」内にオープンした「トレーディング ミュージアム・コム デ ギャルソン(TRADINGMUSEUM COMME des GARÇONS)」で初めて展開された。このラインはビートルズからの依頼で実現されたとのこと。バッグの素材はポール・マッカートニーの意向でレザーではなくポリ塩化ビニールが使われている。「ブラック・コム デ ギャルソン(BLACK COMME des GARÇONS)」も期間限定でスタートしたが、予想以上の人気を集めたため継続ブランドに変更となった。
同2009年、大阪にアートスペース「Six」をオープン。ビジネススーツライン「コム デ ギャルソン・オム ドゥ」を刷新し、ロゴマークもリニューアル。イタリアの紳士服の合同展示会「ピッティウォモ」でプレゼンテーションを行った。2009SSのオム・プリュスのコレクションにメンズのスカートが登場し、その後他のブランドでもスカートが次々と発表し「スカート男子」というトレンドが生まれた。マーク ジェイコブスもショーのフィナーレでギャルソンのスカート姿で登場したことがある。
2011年、東京・表参道の「GYRE」内に新コンセプトの「グッドデザインショップ コム デ ギャルソン ディアンドデパートメントプロジェクト」オープン。共同運営者である「ディアンドデパートメントプロジェクト」はナガオカケンメイが代表を務めるプロジェクト。その生活雑貨や家具と共に、コム デ ギャルソンのアイテムやヴィンテージを販売している。
2010年8月25日より、ブラック コム デ ギャルソン(BLACK COMME des GARÇONS)を他ブランドも含めたショップ「エディテッド ブラック コム デ ギャルソン」に転換。
2011年春夏シーズンをもってタオ コム デ ギャルソンが終了。デザイナーを務めていた栗原はそれまで兼任していたトリコ コム デ ギャルソンのデザインに専念することになった。
2012年、東京・銀座のギンザコマツ西館にドーバー ストリート マーケット ギンザ・コム デ ギャルソン(DOVER STREET MARKET GINZA COMME des GARÇONS)をオープン。sacaiやkolor、ア ベイシング エイプなど日本のブランドから、バレンシアガ、ルイ・ヴィトン、グッチ、セリーヌ、シュプリームなど様々なブランドがセレクトされ、話題となった。それに伴い、ミラノ発のセレクトショップ「ディエチ コルソ コモ」とパートナーシップを結んで運営していた東京・南青山のセレクトショップ「10 corso como COMME des GARÇONS(ディエチ コルソ コモ コム デ ギャルソン)が2月に閉店した。同年、青山店をリニューアルオープン。
2014年、コム デ ギャルソン・パルファム パルファムより、新作フレグランス「GIRL by Pharrell Williams」発売。
2017年5月4日(木)から9月4日(月)まで、川久保玲にフィーチャーした展覧会が、アメリカ・ニューヨークにあるメトロポリタン美術館で開催される。同年、西武池袋本店に新複合ストアを出店。初のブラック・コム デ ギャルソンを展開する。
2018年7月新ブランド「CDG(シーディージー)」をスタート。コム デ ギャルソン過去50年間のクリエーションを意味する「CDGシンボルロゴ」がポイント。同時に東京・大阪に旗艦店をオープン。同ブランドは、コム デ ギャルソン初のオンラインショップでもアイテムを展開する。
2022年春夏コレクションより「ジュンヤワタナべ・コム デ ギャルソン」「コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン」「アイ コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン」「トリコ・コム デ ギャルソン」が名称を変更。※ブランド&ライン詳細を参照