マメ クロゴウチ(Mame Kurogouchi)の2025年春夏コレクションが発表された。
この世にあるものは、何がしかの「かたち」を持つ、それが自然物であっても、人の手による道具であっても芸術作品であっても。そして、たとえ互いに異なる時代や文化、環境のもとに生まれたとしても、もの同士には、しばしば共通する「かたち」を見出せるだろう──「Katachi」をテーマとした今季のマメ クロゴウチが目を向けたのが、日常に溢れるものの「かたち」であった。
デザイナー黒河内真衣子のまなざしは、小石や貝といった自然物ばかりでなく、陶器や漆器などの実用品、そして芸術作品にも等しく注がれたという。「等しく」ということは、それぞれのものに対してバイアスをかけずに向きあい、個々の造形そのものに意識を向けることである。こうして「かたち」を浮かびあがらせるとは、だから、ものの本質をすくいあげ、純粋な造形へと還元してゆくことにほかならないだろう。
日常に満ちみちる多様なものからすくいあげた、ものの多様な「かたち」──そうした繊細な身振りから生まれたウェアは、だから、研ぎ澄まされた簡潔さと抑制された色彩感を基調に、曲線を有機的に描きだしては均衡を柔らかく破ってゆく。量感のあるトップスやドレスは、アシンメトリックな仕立てにより緩やかなドレープをひき出す。あるいは、ブラウスは非対称なカットを施すことで、レイヤリングが透け感の微妙な階調を織りなす。いわば、ファブリックが身体の周りに紡ぎうる造形が、力まず、自然に繰り広げられているのだ。
黒河内にとって「かたち」とは、ものの外的な見た目に限られるものではない。波打つようなストライプで編みあげた、ニットのノースリーブドレスやフレアスカート。細かなプリーツにうち震えるノースリーブドレス。ギャザーを寄せることで大胆なボリュームを生んだバルーンスリーブのドレス。こうした放射状の造形やボリューム感は、京都で目にしたという提灯の骨組み、その構造と「かたち」に着想を得たものである。
ところで、黒河内が「かたち」への関心を深めゆくなかで出会ったのが、『日本のかたち』という書物であったという。同書では、日本の工芸や道具の数々が、大判写真で紹介されている。ここに、日常を心地よい「かたち」で彩るという、日本の伝統を見てとってもよいだろう。思えば、たとえば屏風が実用的な仕切りであると同時に美的な絵画でもあるというように、日本においてものの用と美とは、判然と区別されるものではなく、渾然一体となって日常に溶けこんでいたのであった。
衣服が、身にまとうものであると同時に生を彩るものであるという意味で、用と美が一体となった最たる例でなくて何であろう。七色にきらめくジャカードで花鳥風月の文様をあしらった、ノースリーブのドレスやジャケットなどには、研ぎ澄まされた衣服に華やぐ「かたち」を感じとれる。その花鳥風月の文様とは、岐阜提灯に描かれた涼しげな秋草や、琉球の螺鈿細工が見せる輝きなどに見出された「かたち」でもあったという。
そういえば「かたち」を言い表す言葉として、「フィギュール(figure)」が思い浮かぶ。これは、ものの形を意味するばかりでない。旧約聖書のアダムが新約聖書のキリストを象徴的に告げるというように、実際に目にする像が、かつて存在した別の像に対応するというイメージのあり方をも示している。いわば「かたち」の裡に、過去と現在の行き来を見てとることである。自然と人の営みから純粋な「かたち」を浮かびあがらせ、衣服という現在へと架橋すること──マメ クロゴウチは、そうした「フィギュール」を衣服に見ているように思える。