ニューヨーク・マンハッタンの中心に、ガーメントディストリクトと呼ばれる小さな地区がある。その名が示す通り、ショールームや生地屋など洋服に関わる全てのお店がかつては密集していた。日本人デザイナーが手掛けるメイド・イン・USA ブランド「エンジニアド ガーメンツ(Engineered Garments)」はこの地区にオフィスを構え、活動している。後にアレキサンダー・ワン、ロバート・ゲラーらが続くことになる、米ファッション評議会「ベスト・ニュー・メンズウェアデザイナー・イン・アメリカ(Best New Menswear Designers in America)」第1回受賞者にも選出。そんな輝かしい実績を持つデザイナー 鈴木大器に話を伺った。
日本に5店舗、NYに1店舗を運営しているリテイラーであり、世界中のブティックへ自分たちのブランドの商品を卸売りしているホールセーラーでもあります。自分たちの好きな世界があって、それに必要なものを集めたり、作ろうとしてきました。特にインポートにこだわって。少人数で家族的な雰囲気で、他の大手とは違う立ち位置で、商品開発に関して1、2歩踏み込んだところまで作りこむ。広く浅くではなく、狭い領域を深くやってきました。
アメリカで買い付け(バイヤー)をやっていました。80年代後半から90年代前半はインターネットもなく、カリフォルニアやニューヨークで行われる展示会で買い付けるのが普通でした。だから足で回ることで違いを作ることができました。勘と、どこからか流れきた情報を元に、現地に行ったり、電話帳をひっくり返して、メーカーの名前を調べたり、人に聞いて、住所を探し出して足を運ぶ。そうやって、自分たちの世界に合う、誰も知らないような小規模なメーカーを足で探していたんです。そういう時代でした。
環境が変わりました。ブランドも淘汰されてきたし、アメリカ国内生産よりも中国生産が主流になってきた時期です。何より、インターネットが普及し始め、自分たちの手で日本へインポートしたブランドの出所も、皆にすぐ分かるようになりました。人気だと分かると他のショップもすぐに買い付けに行きます。僕たちには独占輸入販売契約を結ぶようなビジネスマインドもありませんでした。そうすると後は競合との価格競争になったりして、自分たちのやってきたやり方では難しいなと感じました。
ネペンテスが生き残っていくために、自分たちで作るしかないと思ったのは確かです。東京では清水(ネペンテスの創業者)がニードルズを、アメリカでは僕がエンジニアド ガーメンツを99年に始めました。ネペンテスが扱っていた商材の中では、パンツとシャツが当時弱かったので、パンツとシャツの制作から入りました。昔から付き合いがあるニューヨークやサンフランシスコのお店には、初期から販売して貰いましたが、基本的には日本で売ることしか考えていませんでした。
”いつかは洋服を作る”と思っていた訳ではありません。これまでの経験や付き合いから、自然と自分たちで作るという選択になったんです。
まず、日本でオリジナルを作っていたので、洋服の作り方のプロセスは頭の中では分かっていました。買い付けで、アメリカのブランドとも深い付き合いをするなかで、彼らのやっていることを近くで見ていたこともあり、生地をどこで購入して、どこの工場でどう作っているかということまで把握していたんです。
加えて、幸運な事もありました。買い付け時代から交流のあったデザイナーの1人がビジネスをたたもうとしていたので、僕らの洋服作りを手伝ってもらうことをお願いし、ノウハウを持っている人をパートナーに迎えることができたのです。
全てが未熟でした。やり始めてみると、いくらお店に立ったことがあって、バイヤーもやって、知識があっても、モノを作るということは別次元でした。洋服を作るには全てを俯瞰(ふかん)する能力が求められると思います。最初はそれがわからなかったですね。今からみると、大笑いするような商品もありました。自分では良いと思って作っているから悪いところが見えないし、悪いところを見ようともしない。自分では善し悪しの判断ができないんです。
だから、昔から買い付けしている人からのフィードバックはありがたかったです。正直な感想聞くと落ち込んだりしたけど、それが大きなヘルプになりました。商品をきちんとした形にするのは時間がかかります。最初の数シーズンをダメだった時に心意気を理解して、購入してくれていた、支えてくれるお店があったのが幸運なことだったと思います。