日本を代表するファッションデザイナーである「コシノ三姉妹」。その三女ミチコがロンドンを拠点に活動し、ヨーロッパ中から愛されてきたデザイナーであることは日本では見えにくい事実かもしれない。
ボブ・ディランやボーイ・ジョージなどを顧客にもち、80年代、90年代のクラブファッションを第一線から斡旋してきた。90年代、HIVの危険性が叫ばれた最中、ブランド・コンドームという概念を作り、方や今ではファッションショーでは当たり前の光景となったスキンヘッドの黒人女性をモデルを初めて起用したのもミチコ・コシノからだった。そんな彼女は74歳の今でも第一線で走り続けており、ミチコロンドン(MICHIKO LONDON) は2016年6月、遂に30周年を迎えた。それを機に一年に渡って、東京やロンドンのみならず世界中で数々な記念イベントが行われてきた。ハイライトとして2017円1月には数年ぶりにロンドンでコレクションを発表し、記念周年の最後に、これまでの30年の軌跡を振り返ったインタビューを行った。
三姉妹の母、綾子に焦点を当てた連続テレビ小説『カーネーション』からもうかがい知れるような実家の呉服屋の印象とはがらりと異なり、ミチコ・コシノの作る服は30年間一貫して「ストリート」ファッション。その真相や彼女のファッションへのこだわりを伺うことができた。
ミチココシノプロフィール:
大阪府岸和田市に生まれる。コシノ ヒロコ(ヒロコ コシノ)、コシノ ジュンコ(ジュンコ コシノ)を姉にもち、ファッションデザイナー3姉妹の一人として活躍している。
1973年に単身渡英。ロンドンファッションの創始者の一人クーパーの教えを受け、1976年 MICHIKO CO.を設立。
81年、ショップを青山にオープン。84年、ロンドン、デーリングストリートにアトリエ、ショールームを併設したショップをオープン。
空気で膨らませる「インフレータブル」シリーズやネオプレーンを初めてタウンウェアに使用するなど、その特徴的なデザインでロンドンのクラブシーンやミュージックシーンへ多大な影響を与える。そのコレクションは80年代ストリート カルチャーの象徴とし英国王立ヴィクトリア&アルバート博物館に納められている。また、BFC「英国ファッション協会」に日本人で初めて正式会員となる。
自分のブランド「ミチコ ロンドン(MICHIKO LONDON)」にて、ロンドンはもちろんパリ、ミラノでもショーを開きヨーロッパ各国を初め日本、アジア、アメリカのマーケットに進出し、成功を収める。常にロンドンのストリートファッションと呼応し、日本でもエネルギッシュに活動を展開中。
2017年1月にロンドンICAにて行われた展示会
ブランドスタートから30年を過ぎました。今の心境をお聞かせください。
「ミラクル」だったと思います。私たちみたいな従来のラグジュアリーブランドではなく時代を提示していくストリートファッションで30年続いているということは本当に珍しいことですから。
30年以上、最前線で走ることができた秘訣は何だと思われますか?
“走り続けられることそのもの"が大切です。日本とロンドンに永遠に時差というものがあるように、デザイナーの感覚的なものと市場には常に時差がある。だからずっと走ってなくちゃいけなくて、一時的にやめてしまったらダメ。ファッションショーという公の場で人に見せられなかったこともありましたが、私自身は決して休んでいません。常に走り続けてる。それこそミラクルですね。
常に走り続ける姿勢は、ブランドを創設する前から変わってないことでしょうか?
変わっていません。習慣的に時代を「追う」のではなく「先取って」いくのは私の中ではいつもやっていること。ミチコロンドンができてから30周年だけど、その10年前から、私自身は同じようなことをやってきたと思います。
拠点をロンドンとした理由をお聞かせください。
一番楽で、真剣に制作できて、自身のアイテムを発表をできる場が私にとってロンドン。例えばイタリアとか、技術も含めて色んな要素が既にあるから頼れてしまうんですよね。でもあれは最後に頼るところであって、そこに最初から頼るのは良くない。恵まれすぎて、クリエーションができない。自分の手で作っていかないと。その点でロンドンは何もないですから。(笑)
私の活動しているエリアの近くに一軒だけジッパーとか糸とか売ってる店があって、何十年も前から、ぼっそーとやってるんですよ。10時開店なのに、10時に開いてなかったり。年末も12月18日に終わる。笑。
周りにアートやデザインの学校がいっぱいあるのにですよ!
本当、そのぐらいプリミティブ。日本みたいに、電話したら次の日デリバリーが持ってきてくれる環境は、恵まれすぎて私にはだめですね。
例えば、生産業者がボタンホールの機械を使えないから、私の服はいつもジッパーかマジックテープのみ。ボタンのとこはループ。どうしても必要な時は自分たちでミシン踏むみます。このプリミティブな感じ。だから、シャツなんか私はこれからも絶対作れません。(笑)
カレンダー写真のネガ画像
最も達成感を感じた瞬間の話をお聞かせください。
2000年に自分のコレクションを使って(2000春夏/2000秋冬)ポスターを作ったのですが、その時のカレンダーが特にお気に入り。当時にしては珍しい3Dに見える加工まで使えて、本当に素敵なものができたと思って。ヨーロッパ中の新聞にも載ったんですよ!
世界で初めて、ブランドコンドームを始めエイズ撲滅キャンペーンに賛同しました。振り返れば革新的です。始めたきっかけや背景を教えてくだい。
(HIVなど)身近に感じる人がいっぱいいたからですね。80年代から90年代にかけてクラブファッションをやってて、当時は情報を取りに行くのに実際にその場に足を運ばないといけない時代でしたから、クラブによく足を運んでたんですね。そこでエイズに対してみんなすごい恐怖心を持ってたことを肌で感じていました。
それにファッション業界は、ゲイの人が圧倒的に多い。80-90年代のクラブ文化をゲイだらけのファッション業界から引率してきて、なおかつゲイじゃない私だから、違った意味も付随されずに堂々と発表できたんだと思います。これは私しかできないことだでした。当事者がしだすと少しセクシャルな部分がクローズアップされてしまうし、だから、ゲイの友人たちにも、“あんたしかおらん!"と言われたし、本当に私でなくちゃならなかった。
あと、ナイロンとコンドームってなんか合うものがあるじゃないですか。全部着るものだし。ウェア。(笑)
真面目な話をすると、コンドームに対する概念みたいなものを絶対に変えたかった。当時、ひょっとしたら今でもそうかもしれませんが、日本だとコンドームといったら“シー"っていう文化。風俗は氾濫してる国なのに…。なんか、すごい変じゃない?って思います。だからコンドームを“シーの文化"でなく普通に変える、そういうことをしたかった。人が身につける服と同じような、身近で手軽な感覚であって欲しかった。ファッションデザイナーがなんでそんなことするの?と言われたりもしましたが、ファッションデザイナーがしてなんで悪いの?と思ってました。世の中にできることがあるならじゃんじゃんしたいですね。