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デザイナー三原康裕にインタビュー、靴作りから始まった「“人と芸術を調和させること”が僕の使命」

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シューズを原点に、今では日本のファッション界を率いるデザイナーの1人となっている三原康裕。自身の名を冠したブランド「ミハラヤスヒロ(MIHARA YASUHIRO)」は、プーマ(PUMA)とのコラボレーションを契機に世界へと名をとどろかせ、ミラノ、パリ、ロンドンコレクションで活躍。2016年にはブランド名を「メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO)」と改名して、新たな一歩を踏み出した。

2021年は、ブランド設立から25周年の節目。新プロジェクト「ジェネラルスケール」をスタートしたほか、自身の故郷である福岡に新たな店舗をオープンするなど、新たな挑戦に挑み続ける三原康裕にインタビューを実施した。三原の制作の原点である“芸術”への興味、デザインの哲学、そして自身のこれまでの活動について振り返ってもらった。

メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真1

三原康裕にとっての芸術

■芸術への興味はいつ、何がきっかけでしたか。

母が油絵を描いていたこともあり、芸術が一番身近に、生活の一部としてあることが“僕の普通”でした。小さい頃は、ダリ、ゴッホ、ピカソ、モネ……有名な画家たちの作品が載っている画集を絵本のように見ていた。それが、すごく好きでした。具体的なきっかけは分かりませんが、そのような経験は影響していると思います。

■では、実際に見るだけなく、自分でモノを作りはじめたのは何がきっかけだったのでしょうか。

やはり最初は母がきっかけでした。小学校の低学年頃には、母に言われて鉛筆やクレヨンを使ってスケッチブックに絵を描くようになりました。高学年の頃になると当時のブームに乗っかり、プラモデルやラジコンの改造に夢中になりだして。最初は付属の設計図通りに作っていたけど、途中からは飽きてきて、自分で形を変えてみたり、モーターを変えてみたり、改造するのにハマりました。

母の言われたまま絵を描くことも、説明書の指示通りにプラモデルを作ることも、 “やらされている自分”があまり好きではなかったんです。

■教科書通りに進めることがあまり好きではなかったと。

ずっと自主的に何かを作ることの方に、面白さがあると感じていました。両親が基本的には放任主義だったからかもしれませんね。

■放任主義?

例えば芸術家になりたいと話すと、普通の親なら「ちゃんと働きなさい」と言われるかもしれませんが、母は「飯が食えるかどうかは知らんけど、誰でもなれるけん、やるんやったら気合を入れてやんなさい」というような感じでして…(笑)。

■三原さんは、その後、多摩美術大学に進学されるわけですけども、それは自分の意思だったのでしょうか。

いえ、母に騙されて(笑)。高校2年生の時、母に「面白い人がいるし、楽しい場所だからついて来なさい」と言われて連れていかれた場所が美術予備校だったんです。「やられた」と思いましたね(笑)。

でもそれがきっかけで美大に行きたいと思うようになりました。未来に希望を持てなかった僕にとっては、得意だった絵を描くことは“身近な逃げ道”みたいなものだったのかもしれません。

メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真5

■地元の福岡ではなく、東京の大学を選んだのはなぜですか?

大学で美術教育を受けることよりも、価値観が違う芸術好きな同世代の人に囲まれる環境に魅力を感じていました。東京の美術大学であれば、アートやデザインに才能を捧げる日本中の若者が集まるわけだからそれができる。色んな人と切磋琢磨できる環境、僕にとっての“戦う場所”が欲しかった。

居心地が良いスタンスよりも、戦い続ける場所を「自分の居場所」にしなければならない。美大を目指すようになってからはそう思っていました。

■大学ではどんな学科に入られたのでしょうか。

多摩美術大学デザイン学科のテキスタイル専攻でした。

■テキスタイル専攻ということは、そのころにはファッションに興味があったのですね。

いえ、単に一次試験での英語や国語の学科の足切りがなくて、デッサンやデザインの実技試験に重さを置いた試験だったので。簡単にいえば、絵は自信あるが学力は…… ?(笑)。

正直いえば、受かればどの学科でもよかったのです。僕の中では芸術もデザインも十分理解していました。ファッションは好きでしたが、自分が仕事にするなんて思っていませんでした。ファッションデザイナーになるなんて小っ恥ずかしくて言えなかった(笑)。

でも、その学科を選んだことが今思えばよかったと思っています。逆をとれば絵の秀才が集まる学科でしたから。みんな作家希望でしたし。デザインというよりファインアート。また、あの頃の多摩美にはすごい才能が集まっていたと思います。学生なのにプロフェッショナルに負けない個性のある才能がたくさんいました。そんな才能のある人ばかりに囲まれて、自分の不甲斐なさを痛感させられました。ものづくりの姿勢や考え方に対してプロ意識を早い段階で持てるようになったのは、その環境が良かったんでしょうね。

■大学に入ってから、絵は描き続けられていたのでしょうか。

いいえ、絵を描くことをやめました。絵に縛られてしまい、もっと大きなものに気づかなくなってしまわないかと思い始めて。当時(90年代)は、コンテンポラリーアートが見直され、ネオコンセプチュアルアートによって多種多様な問題提起が出はじめ、芸術の可能性が広がってきた時代。芸術の自由度が高まったからこそ、自分が絵を描けることをちっぽけに感じました。

そんな中で、僕の心にずっと残っていたものがありました。13歳の時に知ったマルセル・デュシャンの「泉」。当時の僕は、「なぜこれが芸術なのか?」理解できず、彼の作品のことがすごく“嫌い”だった。

でも、一度向き合ってみることにしたんです。なぜこんなにも彼の作品が嫌いなんだ?って(笑)。

■向き合った末の答えは?

彼の「レディ・メイド」作品(※1)は自己主張ではないし、技術的な作品ではない。でも、星の数ほど芸術家がいてもずっと僕の頭の中にある。“嫌い”な彼の作品が生み出した「これは芸術なのか?」という問いが頭から消えなかった。

それで思ったんです。「これは芸術なのか?」という問いは、同時に「芸術とは一体何か?」という問いでもある。僕は人々に強制的にある種の問題提起が生まれる作品が、僕が望む芸術の本質なのだと理解しました。

※1レディ・メイド:マルセル・デュシャンが考案した作品の概念、大量生産された既製品から、その本来の機能を剥奪し、アートとして提示したオブジェ作品。

メゾン ミハラヤスヒロのアトリエ風景
メゾン ミハラヤスヒロのアトリエ風景

芸術を靴作りに

■問いを生み出す作品を作ること。それを大学でひとつの指針にしました。

人々に問いが生まれる作品を作りたいと思ってからは、何がふさわしいか、1年ほどかけて考えました。手取り足取り学校で方法を教わるのは嫌。「芸術は人に教わるものではない」という言葉は常に僕の第1小節にあった。入学までに2浪していたこともあり、遊ぶ時間はなかったので、とにかく何かを作り続ける4年間にしようと思っていました。

■そこから靴作りへ至るには、どのような考えの変化があったのでしょうか。

小さな頃の美術館での記憶を思い出しました。美術館でオブジェや絵に触ろうとしたら美術館の学芸員に怒られたことがありました。家の画集で見たフラットな絵画とは違って、実際の絵画は油絵具がこんもり盛られていて、僕はそれをただ触りたいと思ったけど、ダメだと言われた。

もちろん貴重な絵画やオブジェ作品なので致し方がないことだと思いますが、「美術作品は守られていて、人々とは距離がある。」という印象が、子供の頃のトラウマ的な記憶として残り続けていました。

僕にとって「芸術」は「人を強制的に思考させる」ものであって、それ以上でもそれ以下でもない。「芸術」は日常に存在すべきなんです。だから僕はもっと“人と芸術を調和させたい”と思いました。

■ “人と芸術の調和”という目的で、靴を作ることへ至ったと。

はい。少々乱暴に言うと人と芸術を調和させることを望むなら、究極として人が使って捨てるものがいい。靴はその象徴だと思いました。靴は、履きこまれて、すり切れて、最後は壊れてしまう。そこに到達点を感じました。

三原のアトリエ風景
三原のアトリエ風景

■靴作りにおいてはどのようなポリシーをもっていましたか?

「独学」という決まりだけは守っていました。幼少期から始まる小中高の学校教育、生徒と先生というような社会にうんざりしていた。

とにかく自分で方法を築いていこう。最初は自己研究、作品作りという側面が強かったでしょうね。その時はまだ、人と向き合うといった段階ではありませんでした。

■まずは作品に向き合う段階だったのですね。

はい。靴はとても身近に在りながら作り方が分からない。一見単純だが、どのような材料を使っているのか、平面の革をどうすれば立体的にできるのか、分からないことだらけだった。でもそれが靴作りの魅力だと感じていました。

当時は、今のようにインターネットもなかった時代ですし、調べる術も少なかったことが良かった。本当に息詰まったら作っている人の下へ足を運ぶ。イギリスにも行きました。職人の人からは教えてもらうというよりは、彼らの仕事を見て、模倣する。実際に自分の目で見て、身体を動かしてみなければ分からない。試行錯誤して、イチから自分でやり遂げることがとても楽しかったです。

■こうして三原さんの靴作りがスタートするわけですね。

17歳の頃、イギリスのジョン・ムーアが好きで、彼の作家的な感性、1点もののような独創的な作品に熱量を感じていました。だから僕も1点もの、作品としての靴を作っていました。

でもある出来事を境に新しい疑問が生まれます。

■その“ある出来事”、“新しい疑問”とは。

自分がある程度靴を作れるようになりだした時、友達の誕生日に靴を作ってプレゼントしたことがありました。そしたら「世界に1足しかない靴!嬉しい!」と言われて、僕はなんとなく違和感を感じ、嬉しい気持ちにはなれなくて。

芸術と人を調和させる上で「1点もの」であることは、果たして良いことなのか。

”あなたのためだけに作った一足”という概念は、自分の「作品の価値」よりも「希少価値」に意味がある。1点ものが大量生産より貴重だという固定概念が生まれているんです。人と芸術を調和させるためにつくったはずの靴が、結局、僕の忌み嫌っていた保存され続ける芸術の概念、希少価値というセールストーク、社会が作り出した形式から逃れられていなかった。自分の望む哲学ではなかったということです。

だから1点ものを作るのはもうやめよう。どんな数でも「作品の価値」は変わらないことこそが重要だと。

メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真4

自身のブランドをスタートへ

■在学中(90年代中頃)にミハラヤスヒロの前身となる「アーキ ドーム(Archi doom)」という靴のブランドをスタートしました。

当時は、突然変異的に様々なデザイナーが出だした時代でした。「日本のファッションは海外に比べて10年、20年遅れている。」とも言われていた時代に、海外の模倣ではなく自分たちが望むファッションを表現しようとブランドを興したような若者達が多くいました。

その頃の僕が創る靴は、「どんな洋服に合わせたらいいの?」と戸惑うような変わった革靴ばかり(笑)。人々との共感性は不要だった。分かる人に分かれば良いし、もっとエゴイスティックなアイデアでいい。ただ、それが当時のファッションのムーブメントに自然と馴染んでいたと思います。

■卒業後、本格的にブランドが始動し、お店をオープンします。

僕自身は変わった見られ方をしていました。ファッションの人にとっては、美術生でアカデミックな存在で早熟な人間。アートの人からみたら異端児で、ビジネスを始めたりして扱いにくい存在。どっちつかずで曖昧なところに自分が居れたことが、居心地よかった。一方で、卒業後は「もっとしっかりしなくては」と思いました。

■将来的に世界に飛び立つことも考えて、「ヤスヒロミハラ」にすることは考えなかったのでしょうか。

「ヤスヒロミハラ」にすると、海外に“あわせてる感”が出てしまう。「ミハラヤスヒロ」の方が、日本人としてのプライドを持てると思いました。海外の人に合わせてもらえればいいと。これはその当時、交流の深かったユナイテッドアローズの栗野さんと一緒にブランドのこれからを考えたときに出てきたアイデアであり、栗野さんの受け売りでもあります(笑)。

あとは僕がシューズデザイナーだったから尚のこと。西洋の歴史に比べたら、日本における靴の歴史は浅い。だから「日本人なのになぜ靴をつくるか?」と聞かれたとき、自分の哲学に芯を捉える意味でも「ミハラヤスヒロ」にしたかったのです。

三原のアトリエ風景
三原のアトリエ風景

海外進出のきっかけになったプーマのコラボ

■2000年には、スニーカー制作をスタートさせました。なぜスニーカーを作ろうと思ったのでしょうか。

正直、20代で革靴に向き合い続けてきて、大体は答えが出尽くしたと感じてしまいました。しかし僕は革靴が大好きで、好きだからこそ変化しなくてはと望みました。

革靴は素晴らしいけど、どこへいってもクラフツマンシップ、オーセンティック、クラシック…と同じような言葉が並ぶ。100年前に完成された革新的な技術が素晴らしいからこそ「伝統工芸的」になってしまう。しかし、ここで疑問は残ります。100年前の職人やデザイナーはイノベーティブな存在だったのでは?そのレガシーだけに頼ってはダメだ。次は僕らが新たな「伝統」をつくる番だと。

テクノロジーが急激に進化を始めた当時(90年代半ば)、この先、自由に革新的に創り続ける現代の職人の姿はどこにあるのかと考えたとき、1つのヒントがテクノロジーや、最新の素材を使ったスニーカーにあると思いました。結果的に言えば、僕は革靴がこよなく好きだからこそ、テクノロジーと共に進化するスポーツシューズにも精通すべきだと道を選んだのです。

プーマ バイ ミハラヤスヒロ 2014年秋冬コレクションより
プーマ バイ ミハラヤスヒロ 2014年秋冬コレクションより

■それがプーマとのコラボレーションに繋がったのですね。どのようにして海外の大手ブランドでもあるプーマとの共作に辿りついたのでしょうか。

電話です。「僕はシューズデザイナーをしていて、これまで革靴ばかりを作ってきました。スニーカーにも精通したいからスニーカーを作らせてほしいです。」と単刀直入にお願いしました。

今でこそスポーツブランドは、ファッションと結びついていますが、当日は“アスリートのためのスポーツブランド”のような立ち位置でした。そんな中でもプーマは寛容で。まだコラボレーションという概念もなかった時代でしたから、前向きな返事をいただけてとてもありがたかったです。

■スポーツとファッションのコラボレーションの結果はどうでした?

話し合いが進み、2000年に日本だけで発売しました。すると、嬉しいことに3日もかからず完売。そして海外のドイツ本社から連絡が入り視察団が来て、「このモデルに対する問い合わせが多く、プーマ社としては見逃すことはできない」と言われました。今のようにサーチエンジンも無く、インターネットで全てを見られる時代ではありませんでしたし、海外にいるスニーカーフリークの人たちがどのように情報を知ったかどうか不明ですが、たくさん問い合わせたのでしょう。翌年の2001年から海外でも発売することになりました。

■それからプーマとのコラボレーションは15年にわたって発表されています。

15年の間で「コラボレーション」というマーケットが成熟しました。2000年当初とは比べられないほど様々なブランドから続々とコラボレーションが販売され、スニーカー戦争が起こりました。でもそれの多くはマーケティングの一環のようなもので。僕は、その縮図に少し疑問を持つようになった。

一方で僕自身、そろそろ自由にスニーカーを作ってみたいという好奇心が沸いてきました。プーマとのコラボレーションは大事にしたかったので、一緒にやっている間は自分のオリジナルは作っていませんでしたから。次のステップに進むことを決めて、プーマとのコラボレーションを終えました。

靴から服へ

■革靴とスニーカーのノウハウを積み上げてきた三原さん。服を作るようになったのはなぜですか?

90年代、「面白い靴を作っているね」と言われても、どこかに「区別」を感じていました。“小物のデザイナー”と“服のデザイナー”の区別。日本でシューズデザイナーの立ち位置を見たとき、どうしてもファッションデザイナーよりプライオリティが下にあるように思っていました。

バッグ、シューズ、帽子、なんでも「小物」とまとめられるのが、僕は嫌でした。“小さい物”ってなんだよって。シューズデザイナーも、帽子デザイナーも末端にかける情熱がすごいのだから、「末端系」デザイナーと呼んでほしい(笑)。

単にシューズデザイナーとして認知されるだけでは、日本のファッション界におけるシューズデザイナーは市民権を得られることはない。だから「シューズデザイナーでありながら、ファッションデザイナーになろう」と思ったんです。

■服を作る知識はあったのですか?

全くなかったので、靴と一緒で全部イチから。まだ若いのだから、今しかないと思って始めました。

やってみたら想像以上に大変(笑)。靴のようにアイテムが一つではない。本を読んだり、古着を分解してみたり、アナログの方法でとにかく勉強。靴を作ったときと一緒で、誰からも教わらないというのをひとつの指針にしていました。

しかし、服を作る知識を得るのは難しくはない。重要なのはどのようなクリエーションの哲学を持つのか?ということです。

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メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真1 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真2 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真3 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真4 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真5 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真6 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真7 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真8 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真9 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真10 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真11 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真12 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真13 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真14 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真15 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真16 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真17 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真18 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真19 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真20 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真21 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真22 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真23 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真24 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真25 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真26 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真27 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真28 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真29 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真30 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真31 メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO) “人と芸術を調和させること”が僕の使命|写真32

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