■服を作ることにおいて、自分の哲学を見つけられたのはいつでしたか。
自分の表現方法を発見するいくつかのきっかけがありました。2000年頃、リメイクのような企画で仲の良い古着屋さんに頼まれ、何十本ものミリタリーパンツとデニムの古着を即興的に解体し、商品を作ったのですが、完成したパンツが想像以上にかわいくて、大好評だったんです。そこで学びました。2つのモノ、つまりは2つの文脈を組み合わせるだけで人はいろんな解釈をしてくれると。
服がもつ「固定概念の文脈」では、1+1の答えが2になるわけではない。いろんな考えを膨らませることができます。こちらが何か言葉を発するわけでもなく、服を見る人、着る人が自由に答えを想像しストーリーを思考してくれるんです。実際にこちらが文脈を組み合わせたことへの説明がいるかと言えば、それはむしろない方がいい。答えは十人十色がいい。それは突き放しているようですごく親切で、自由な思考は僕が求めている「人間と芸術を調和させる」ことに結び付くと思いました。
■人に考えさせる芸術ですね。
そうです。人が勝手に想像してくれることはとても大事で、僕がずっと思い描いていたことだったから。
それから固定概念や文脈と人の思考との距離の取り方は、すごく大事だと思うようになりました。いろんな意味でのコンビネーション。今の言葉でいうとハイブリッド。今でこそ、ハイブリッドは僕のコレクション定番の手法だけど、最初は全く哲学がなかったんです。作業の中で生まれただけで。
これはあくまでも一つの例ですが、デザイナーとしての僕の哲学の多くは人からではなく、自分が創ったモノから教えてもらったことが多いです。
■東京コレクションでしばらく発表したのち、ミラノコレクションに参加されるわけですが、世界への進出はプーマとのコラボレーションがきっかけでしたよね。
プーマとのコラボレーションが成功し、世界では「ミハラヤスヒロ」というブランド名だけが独り歩きしていました。もちろん情報を調べる術が少ない時代の話ですが海外では、女性デザイナーだと思われたり、ミハラヤ・スヒロと思われたりすることもあって(笑)。キャットウォークしかグローバルに訴える方法がなかった時代ですから、プーマには、早くヨーロッパのコレクションに参加してほしいと言われていました。
正直、僕自身はパリにもミラノにもいくとは考えていませんでした。でもやはり“ミハラヤスヒロ”が“プーマバイミハラヤスヒロ”よりも先行しているべき。「やるしかないのかぁ」と追い詰められました。
■ミラノで行った手応えは?
当時、僕は”パリ”なんて口にだすのが恥ずかしい響きだと思っていましたし、ミラノのほうが肩の力を抜いてやれるのではないかと。ただ、やり始めてみると、ミラノは面白いくらい保守的で(笑)。当時のジャーナリストにも「ミハラはパリでやるべきだ」と言われ続けました。
■そのあとパリに移られましたね。
ええ。ミラノからパリに移るのにパリのサンディカで面接がありました。アジア人の僕は異端児であって、どんなことを言われるのかと思っていたら、「ウェルカム。コレクションを行う仲間はファミリーだ。パリを盛り上げて欲しい。」と言われて嬉しかった。パリではアートに対するのと同様にファッションもカルチャーなのだと思いました。
パリでやってみたら素直に良かった。東京では賛辞はあっても否定はなかった。パリには賛否両論があった。ジャーナリズムを感じましたね。
パリに憧れがあったわけではないし、権威の世界だと思っていたんです。今、心から思うのは、世界でもああいうところは珍しいと。華やかな部分しか見えないかもしれないですが、デザイナーに対する敬意も理解力もある。ル・モンド(Le monde)などの新聞に自分のことを書かれるのを見ると、政治やスポーツと同様にファッションが扱われている。ファッションが産業ではなくて文化になっていますね。
■その後、パリを離れてロンドンへ行かれるわけですが、それにはどのような理由があったのでしょうか。
その当時、ちょうどロンドンのファッションウィークにメンズが加わり新しい空気がロンドンに流れるのではないかと思いました。正直言えばパリのマレで起きたテロ事件が僕にとってショックだったのかもしれない。ずっと海外のPRをしていただいているパープルPRの誘いもありロンドンで発表することにしました。
でも1月5日から始まることになってしまい、それには拒否反応があって。年末年始は家にいたかったから(笑)。それにアトリエスタッフの皆とロンドンで年越しをするスケジュールは、皆の家族のことも考えると気が引けたので、もう一度パリに戻ろうと思いました。
■2016年にブランド名を「ミハラヤスヒロ」から「メゾン ミハラヤスヒロ」に変えられました。
50歳を目前にして、人を育てていくことを考えた時、ひとつの集合体としてのブランドを意識をした方がいいと思いました。1人称のデザイナーブランドでは面白くはない。みんなクリエイティブなことがやりたくて僕のもとに集まってくれているし、年齢や経験を積めばそれぞれの才能も成長していくのだから、もっとブランドが面白いものになる。
昔は1人で全てをデザインしていましたが、今ではニット&カットソーは彼、レディースは彼女といった感じでチームができています。それぞれに責任のあるチーム制になったとき、哲学は統一したいという意味も込めて屋号としての“メゾン ミハラヤスヒロ”としました。
■2021年に新たなプロジェクト「ジェネラルスケール」をスタートさせました。どのような意図がありますか?
「ジェネラルスケール」は僕らが環境的責任、社会的な責任をどのように考えていくか手探りしていくプロジェクトです。第1弾では靴を作りましたが、今後は様々なプロダクトに当てはめようと思っています。
「ジェネラルスケール」は直訳すると「一般的な図り・基準」を意味する。これは捉え方によると皮肉的な名前です。なぜなら、現在サスティナブルの概念に対して明確なのは、継続可能な環境、社会、経済を望むための責任は我々にあるということ。ただし未来はどうなるか分からない。サステナブルは、理想であり幻想的の段階でしかないのだから。
第1弾の靴は、すべてが土に還る素材。サスティナブル、トレーサビリティーを徹底的に追求しました。わざと古びたデザインにしているのにも意味があります。その意味は皆さんで解釈してください。
■サステナビリティについては、どのようにお考えですか?
我々のような生産者が経済活動をする上での絶対的な「責任」です。ましてや、サステナビリティやトレーサビリティは、トレンドやセールストークのようにしてはダメです。ファッションの特性上、「流行ったら廃れる」のだから。
過去にもファッション界の人々は多くの間違いを起こしてきました。重大な問題をトレンドのように扱って水を差してきた。もう同じことを繰り返す時間はないのです。
■「ジェネラルスケース」然り、三原さんのデザインにはいつもどこかにユーモアが散りばめられていますよね。
ユーモアは、人に何かを伝えるときのマナーだと思っています。ユーモアのない人は、知らず知らずのうちに人に何かを押し付けてしまったり、逆にマナーに欠けていたりする。ファッションは人の本質を抉り出すこともあるものだから、クリエーションの中で残酷・シビアな一面が出てしまうことだってあります。よってユーモアは必要なのです。
■新しい取り組みといえば、福岡店を新しくオープンしました。なぜ今、故郷の福岡に新しい店舗を開こうと思ったのでしょうか?
お店を開けることを決める前に福岡に帰り、変化した故郷の時の流れを感じたと同時にいろんなことを考えました。ブランドのことだけでなく、家族のことや友人のことも。
30年という時間は、全てを変えるには十分すぎる時間です。正直言えば僕がこれまで辿ってきた道が誰も良いかどうかなんて分からない。ただひたすら前進してきました。だからこそ、原点の街、福岡に“余白”を作りたくなった。無責任に適当に、広く浅くをモットーに。地元の仲間にも店の管理を任せています。高校時代のパンク仲間の旧友で、今は成人間近の子供が3人いる立派な父親です。
■東京や大阪の店舗ともずいぶん雰囲気が違いますね。
テーマは実験的なお店。思いついたこと、楽しそうなことをできたらいいなと思っています。失敗も成功もなく、ゆるくやるのが福岡店の良さ。先ほども言いましたが、無責任で適当に、広く浅くをモットーに(笑)。
だから内装も東京や大阪の店とは全く変えたかったんですよ。何を新しいコンセプトにしようか?30年前とは変わってしまった福岡への想いもあって。
失われた記憶を掘り下げていた時に、パスザバトン閉店のニュースが目に飛び込んできて。(パスザバトンを運営している)スマイルズの遠山さんに「お店の内装を廃棄するなら欲しいです。」と直接連絡したんです。遠山さんは利他的な精神も持った、素晴らしい経営者です。すぐに理解していただきました。最後には「まさにPass The Batonをやっていただき嬉しい」と(笑)。僕の方がとても嬉しかったです。
■なるほど。パスザバトンの内装を再利用されているのですね。
破棄される予定だった壁や床材は無料で、同じように破棄する予定のアンティークやオブジェなどは格安で引き取らせていただきました。とても充実したお店が完成した。靴を置く台なんて、パスザバトンの真ん中にあったあの台。くまのぬいぐるみもパスザバトンから引っ越してきました(笑)。
店舗がなくなればゴミがたくさん出てしまう。サスティナブルを考慮していたこともありますが、単に廃材をリユースするのではなく、様々な人の記憶や想いを消滅させたくはなかった。冗談ですが、解体作業をする時に「ハイエナ工務店」と自分たちのことを銘打ってました(笑)。そのように自分達のことを言って気持ちを高めていました。
■ハイエナ工務店による自由なお店!三原さんらしさが詰まっていますね。
とにかくゆるい感じで、好きなことを適当にやる。無責任に。やっぱり一般的に見ればアングラなんです。僕の存在は。
『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』という本に、「遊びは文化より先に」という内容が書かれているのですが、先ほどの“ユーモア”の話しかり、その言葉はヒントになっています。今は、全てが商業的で文化を生み出す遊びが世の中で生まれづらくなっている。だからこそ、積極的に“実験”してみるんです。遊びをつくるために。
いえ、逆ですね。単に「遊んでいる」のかもしれません。