1960年初めに作られた「J-8279B」モデル。初代モデル「J-8279」の2代目改良品とされるこのジャケットには、MA-1の代表色であるセージグリーンの表地(アウターシェル)と裏地(ライニング)が使用されている。しかし、現代とは異なりリバーシブル仕様ではない。
1963年、MA-1はリバーシブル仕様に進化。ライニングは、ブライトインディアンオレンジへとアップデートされる。鮮やかなオレンジカラーは視認性が高く、遠くからも発見しやすい。このオレンジカラーが救助隊へのシグナルになると裏地に起用されたのだ。当時、兵士には、飛行機の墜落事故など不測の事態が発生した場合、オレンジのライニング面を表に着用することが指示されていた。
また、MA-1のライニングの表または裏には、人物証明書が縫い付けられていた。米軍兵が万が一敵地において負傷した場合の対策として、複数言語で米軍空軍兵であること、安全に米軍に戻れるよう案内が記載されていたという。
1960年代~70年代にかけては、戦地で戦う兵士たちのために細かなディテールが改良された。初期モデルには、酸素マスクを固定するためのフロントタブがあったが、飛行機の設計とヘルメットの酸素システムが進歩しクリップでの固定が必要なくなったため、このフロントタブは取り外される。無線通信機とヘルメットを結ぶループも、通信機の向上に伴いワイヤーが不要になったため外されている。
1970年初頭、MA-1のデザインに変更が加えられる。オリジナルデザインでは、高品質ナイロンの表地(アウターシェル)と裏地(ライニング)の2層の間には、保温のために両面仕上げのウール素材が入っていたが、より軽量化が求められ、この頃からウール素材に代わってポリエステル系繊維が使用されるようになる。
1975年ベトナム戦争が終戦すると、パイロットたちのジャケットが民間の人々の手へ。兵役を満了した兵士は、軍を去る際、フライトジャケットを持ち帰ることが許可されていた。そのため、パイロット本人や残された家族によってヴィンテージ衣類コレクターのもとへとMA-1ジャケットが渡っていたのだ。
そして、市場ではアルファ インダストリーズを探すユニークなムーブメントが起こる。アメリカ国内の軍用放出物資を扱うショップでは「横3本線」の入ったミルスペックタグ付きのジャケットを買い求める客が現れた。
実は、アルファ インダストリーズは、軍への製品納品完了後、手元に残っていたジャケットを軍の放出物資店で販売していた。その際、軍に納品するジャケットと区別するため、1本線入りのラベルを「3本の黒い横線」入りラベルに差し替え。アメリカ軍兵士が着用しているジャケットと全く同じ機能性を持った3本線のジャケットを求める姿が見受けられたという。
1980年代、大きく変化したのは、MA-1ジャケットのアメリカ軍事的需要の低下。ベトナム戦争の終戦、そしてロシアとの冷戦に伴い、1990年代初頭にかけては最大時から比べて75%も下降傾向をたどることに。
そこで、アルファ インダストリーズは、米軍向けのビジネスから一般消費者向けミリタリーベースのグローバルブランドへ転換を図った。その様な中、レーガン政権下において、国防総省の規模と予算を大幅に拡大する決定がなされ、国防総省からの需要が急激に高まり、1980年代半ばには衣類だけで18億ドルが消費された。これによるアルファ インダストリーズおよび同業者の生産は、この新しい需要に向けられた。
市場での「横3本線」ブームを受けてか、アルファ インダストリーズのロゴが変更される。1980年代、初代の一般向けロゴとして企業名の裏に3本線が引かれたデザインが採用され、今日ではブランドの頭文字「A」に3本線を引いたデザインが、ブランドロゴとして起用されている。
1980年代から起こった低迷期は加速度を増す。ソ連の崩壊を経て、米国は武装解除が進められ、軍関係のもの全ての規模縮小及び予算の低下が求められた。米国生産だった軍事衣類は、中国などの第三国の安価な衣類にとって代わり、米国軍とともに成長してきた、アルファ インダストリーズにとって苦しい時期を迎えることとなる。