ケイスケヨシダ(KEISUKEYOSHIDA)の2020年秋冬コレクションが発表された。
人の身体は不確かだ。それは身体が刻一刻と変化し、時に病に冒されるからだけではない。自分の背中や顔を見ることもかなわず、鏡や写真にうつしてどうにか全体像を掴めるにすぎないためでもある。“I'm here”という言葉を掲げた今季のケイスケヨシダは、そのように脆く不安な“自分という存在”を、衣服を通して確かめているようだ。
今季の製作は、古着の山を漁ることに始まったという。1つの生を終えたTシャツを解体し、繋ぎ合わせることで作りあげたボディスーツは、首から手の先まで、身体をぴたりと覆う。覆うというより、想像上の表皮を織りなしていると言ったほうがいいかもしれない。実際、スリーブは一部途切れて、“本当の(?)”素肌が剥き出しになっている。
そんな不安な身体なのだから、上に纏うのは“存在”感のあるものでなくてはならない。シワ感のある生地で仕立てたジャケットは、ピークドラペルを小さく抑え、パワーショルダーや半ばで切り替えたスリーブの立体感を強調した。また、スリーブの上部にはスリットを開けている。ルネサンス期には、スリットから下に身につけたシャツの布地を引き出すことで豊かな装飾性を楽しんだことだろうが、ここではタトゥーのようなボディスーツや素肌を覗かせ、身体の不確かさをなおも仄めかしている。
ピークドラペルのジャケットに見るように、基調となったのは礼服である。ダブルブレストのチェスターコートには、フロントに大胆なカッティングを施すとともにスリットを開け、後ろに隠れる身頃を覗かせた。また、ピンストライプのジレやスラックスには多数のボタンを並べて、アグレッシヴな表情に仕上げている。ある種の不変性を有する礼服が、身体の脆さ、そしてモードの移ろいに抗する要石となっている。
フーディにシャツ、厚みのある生地で仕立てたステンカラーコートを重ねて、全身に鮮やかな赤を纏っても、まだ自分の存在が不安でならない。だからこそ、ダッフルコートのトグルで結びつけた網で、自分のこの身体をしっかり捕まえておく。
あるいは、上品な生地感のシャツには、フロント、ネック、そしてスリーブまで、至るところにリボンを結びつけて。リボンというとかわいらしいイメージだが、ここでは装飾である以上に、身体をぎゅっと締め付けて、自分の存在を確かめるための要素として作用している。ややもすれば底なしの不確かさに落ち込む、自分という存在。その輪郭を静かに、しかし執拗なまでになぞる“生への執着”が表現された。