1950年代終わりから60年代の始まりにかけて確実にファッションは変わりはじめていた。ユースカルチャーがハイファッションの世界にも取り入れられる象徴的な時代だ。
そもそもファッションは19世紀までは宮廷のもの、20世紀に入っても貴族や一部の富裕層、映画スターが中心。この体制が2度の大戦をまたいで徐々に崩れ始めるのだ。アパレル、既製服業界の発達とも大きく関係がある。流行を作っていたオートクチュールのパターンが変化。ファッションはアメリカに代表される広範囲な消費者層を相手にする既製服産業への路線を歩んでく。変化を生み出したのは既製服を着る若者の文化。変化を求めて新しいものを取り入れようと考える若者と、それに答えるようなアパレル企業が増えていく。このようなことからオートクチュールより先に若者のファッションが先行するといった事態さえ生まれてくる。
イヴ・サンローラン
「極度にシンプルにすることが明日へのシルエット」
近代デザインの発展は機能主義に支えられてきた。それは機能的なものが「ただそれだけで美しい」となるもので、デザインの美しさと装飾の美しさは異なるものという考え。戦前、シャネルなどの活躍で機能的なファッションが提案され、戦後になると、ディオールのニュールックに始まるライン時代、シルエットの強調による美しさを求める時代へと変化してきた。反機能主義とも言うべきところに逆流して戻っていったと言える。1950年代後半にもシンプルなスタイルの前触れはあったが、どちらかと言うと、反機能主義的なファッション範囲の中で機能美が打ち出されていたと言える。
その流れもニュールックから10年を過ぎる頃に変化する。時代、若者文化の影響、既製服産業の発展をオートクチュールも黙殺はできなかった。
ファッション変化が生まれだしたのは1963年のスポーティブ・ルックの登場あたりから。中心となるデザイナーはイヴ・サンローランであり、バレンシアガなども代表として上げられます。
スポーティブ・ルックは、それ以前のファッションの延長線上にあるもので、新しいシルエットということではない。ただしそれは少し違う次元から生まれたスタイルと言える。
ファッションの世界では、スポーティー(sporty)とはドレッシー(dressy)の反対用語で軽快でインフォーマルな感じの服装をいい、主にカジュアルウェアをさす。スポーティブ(sportive)とはスポーティーとは違った意味で使われた。つまり、労働者階級の服、作業服やスポーツウェアなどの形式や部分の要素を入れて、ハイファションにしたものを指し、過去のハイファッションの流れとは異なる次元から生まれたものだった。
具体的には、アニマルプリントの布地、水兵服、スキー服、紳士服用の生地などが使用された。
1965年、クレージュは2つのテーマを上げます。1つがミニスカート、もう1つが幾何学ラインだ。
ミニスカート…これにより股が露出することで全体のプロポーションが新しく、そして、以前のハイファッションにはないエロティシズムが生まれた。(ミニスカートはストリートファッションから生まれましたが、ハイファッションの世界に持ち込んだのはクレージュ)
幾何学ライン…建築的な裁断法で生み出す服。具体的には、ウエストラインを完全に開放して着易く造形処理が行われ、見た目が幾何学的、建築的に見える。この流れがサンローランの「モンドリアン・ルック」に繋がる。
他のデザイナーも同じ方向へは進んでいたのですが、クレージュほど一貫して合理的なシルエットを徹底的に、そして高いレベルで追求したデザイナーはいなかったという。
ミニスカートの登場は、ストリートファッションからハイファッションへ、そしてマスファッションに波及するという象徴的な出来事だった。クレージュは自身のファッション哲学を貫くため、より若い人向けにコレクションを出すことを決断。オートクチュールを去ってプレタポルテに集中するようになるのだ。流れはすでにオートクチュールからプレタポルテに傾いていた。ストリート文化やマスファッションの力が徐々にファッションの中心を占めるように変化しだしていたのだ。
プレタポルテとは、すぐに着られる服(=既製服)という意味。フランス語で「準備が出来ている」という意味のプレ(pret)と「着る」という意味のア・ポルテ(a-porter)を合わせた造語だ。英語では「ready-to-wear」という。もちろん、プレタポルテと呼ばれる形態がでる以前から既製服はあった。ただし、それらは一般的には”大量生産の質の低いもの”とされており、差別化を図るために「プレタポルテ」と言った。そのため、日本語に訳す際には「高級既製服」と言われることが多い。
プレタポルテへの変化の背景には、上流階級の生活スタイルが変化したという理由が挙げられる。高級ファッションのターゲットは貴族、裕福層や高級ビジネスマンなどへとシフトしてった。アメリカの裕福層も、より実用的な服の方がよいといった風潮も出てくる。こうして徐々にオートクチュールの顧客も減少。経営難に陥るメゾンが続出する。
1959年、ピエール カルダンがオートクチュールのデザイナーとしては初めてプレタポルテを発表。そして、1960年代半ばになると、プレタポルテの勢いが徐々に大きくなっていった。
象徴的だったのが、1965年、イヴ・サンローランがセーヌ川左岸にプレタポルテのブティックをオープンしたこと。セーヌ川左岸というロケーションは、オートクチュールのメゾンが並ぶセーヌ川右岸の反対。あえてそこに出店したのだ。そして、クレージュも続くようにプレタポルテに進みだした。プレタポルテに力をいれるようになっていた。
もう1つの象徴的な出来事は1968年のバレンシアガの引退。彼は「プレタポルテを発表するには年をとり過ぎた」という言葉を残し、ファッション業界から去っていく。
ちなみにプレタポルテの初期の時代を引っ張っていくデザイナーは高田賢三。彼は1960年代にパリに渡り、1970年に初めてコレクションを開催、70年代に、イヴ・サンローランとともに、プレタポルテを引っ張る代表的なデザイナーとして活躍する。
1950年代までの理想の女性像は、マリリン・モンローのような豊満でセクシーな女性やグレイス・ケリーのようなエレガントな女性。60年代になると、ロンドンでは小柄ながツィギーが注目を浴びる。
50年代に登場した女優で象徴的な人物がいる。オードリー・ヘプバーンだ。今でこそ「妖精」「伝説の女優」と言われるが、最初は「ファニーフェイス」「痩せっぽっち」だった。ジバンシィは当時の理想の女性像とは対極にある女性、オードリーと数々の映画で組み、一つのスタイルを作った。オードリーヘップバーンのファッションは日本でも流行するのだが、当時、彼女が出てきた頃は異例の存在だった。
なお、ジバンシィはオードリーの衣装を映画で手がける際に、「ヘプバーンはキャッシーじゃないのか」と口にしたことが今では伝説となっている。
*当時、ヘプバーンと言えば、30年代後半から長期にわたってハリウッドに君臨した大女優、キャサリン・ヘプバーン。今なお、アカデミー賞主演女優賞を4回受賞した女優は彼女しかいない。