1950年代のファッションは40年代後半と同様にディオールを中心に動いていく。それはまさに「ライン時代」と表現でき、毎年のように新しいシルエットが打ち出されていく。
バレンシアガの登場がホットトピック。彼は、よりシンプルで機能的なデザインを追及。変化が出てきたのはバレンシアガの1950年秋冬コレクションあたりから。「バレル・ライン(バレル:樽)」と言われましたが、その名の通り、樽のようなボリュームのあるシルエットで「ニュー・ボリューム」として取り上げられた。
クリスチャン・ディオールは1950年代に入った頃も基本的にはニュールックを基調としているが、徐々に変化が出始める。ディオールのコレクションの中でもオーバルライン(オーバル:長円形)といわれる、バレンシアガのバレル・ラインのようなシルエットの作品が登場。特にバレンシアガのシルエットを思い切って開放したデザインは新鮮に映った。そして、新しい時代の流れを予感させるものだった。
1955年春夏シーズンに「Aライン」と「チュニック」 と代表的な二つの異なったスタイルが発表される。特にバレンシアをはじめ、バルマン、ジバンシィなど多くのデザイナーがチュニックスタイルに見られるややスリムなシルエットを発表した。
「Aライン」:肩を狭く小さくし、バストはフラットに、ウエストをややハイウエストにに絞る。ウエストより下を裾広がりにしたデザイン。このデザインはデザインの展開が多種類の服装形式に可能で、コート、ワンピース、プリーツスカート、と組み合わせた広く一貫したデザインが打ち出されたため広がった。
「チュニック」: Aライン以上に多くのデザイナーが取り上げたデザイン。代表はバレンシアガ。上着はローウエストのロングトルソー。ウエストは絞らず、肩から背中をゆったりと扱い、全体はストレートなシルエット。スカートはタイト。このような上着とスカートの組合せをチュニックドレスと言う。 バレンシアガの過去の作品デザインの流れを受けている。 バレンシアガは基本的には「チュニック」を極めていく。
※トルソー:ジャケットの丈を長めにして、ナチュラルでスレンダーなラインを強調したシルエットのこと。
その後、50年代半ばにかけても多くのラインが登場。ディオールはスカートを馬蹄型のマグネットのように膨らませました「マグネットライン」、特定のシルエットを主張しない自由な「リバティーライン」などを発表。
バレンシアガ、ジバンシィ、シャネルなどは、チュニックスタイルやシュミューズスタイル(サックドレス)を発表。シュミューズとは肌着という意味。サック(袋)のようなシルエットで女性らしい体系の美しさが隠されてしまうと言うことからフランスでは不人気。一方、全くウエストラインをマークしない新しさと、着やすさが当時の女性たちに受け入れられ、アメリカでスレンダールックとしてアレンジされて人気となった。日本でも流行したと言われている。
1957年10月24日これまでファッション界を引っ張ってきたクリスチャン・ディオールが52歳の若さで死去。イタリアに旅行中の心臓麻痺が原因だった。ファッション界に大きな衝撃が走り、毎年ディオールが打ち出してきた「ライン時代」、シルエットの変化を打ち出していくスタイルの終焉を予感させた。
なお、クリスチャン・ディオールの後継者としてイヴ・サンローランが就任。弱冠21歳であった。
21歳で引き継いだイヴ・サンローランが、初めての開催となるクリスチャン・ディオールのコレクションでは「トラペーズライン」を発表。ハイウエストで少しフィットさせたもので、フレヤーさせたシルエットが特徴。これもサック・ドレスの一種と言われている。サックドレスはどのようなスタイルでも一見でサック風に見え、何らかの形で体にフィットさせているので、イージーフィットと呼ばれた。
しかしサンローランは、思う存分個性を発揮できたわけでは無かった。なぜなら、ディオールには既に世界中に顧客いたが、サンローランの前衛的なデザインは衝突をもたらす。ディオールの営業や職人は保守的なデザインが顧客に合うという考えだったからだ。
例えば、ユースカルチャーの影響を受け、1960年に革のスーツ、コート、タートルネックを黒で統一して、ビート二クス風のファッションを打ち出すが、すこぶる評判が悪かった。当時のオートクチュールの世界ではストリートファッションの影響など許されるものではなかったのだ。彼のやりかたは受け入れられず、これがデザイナーの交代に繋がった。
ディオールのデザイナー交代はサンローランが徴兵された時期に起こるが、徴兵終了後には、サンローランに戻る場所はなかった。ディオールのデザイナーポストはマルク・ボアンに交代されていた。これを機に、イヴ・サンローランは独立を決意する。
ファッションと大きく関係のある音楽、ロックが生まれたのは戦後。ロックが世界中に知れ渡ったのは1955年の映画「暴力教室」タイトルバックに使われたビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」と言われている。間もなく登場するのがエルヴィス・プレスリーだ。
ビートの聞いたサウンドはエルヴィス・プレスリーの名前とともに瞬く間に世に広がっていく。ロックの愛好者たちのことをビート二クス(ビート族)と呼ぶようになる。プレスリーのスタイル、黒の革のジャンパー、リーゼントがビート二クスファッションとしてロックとともに広がった。そして、プレスリー以外にシンボルとなったのが、ジェームズ・ディーン。ジーンズに革ジャン、Tシャツのスタイルも知られていく。
ただ、これは先駆け的なものであり、ジーンズの本格的な登場は60年代後半になってからのこと。
1955年に発表された石原慎太郎「太陽の季節」が芥川賞を受賞、映画化までされブームとなる。小説では、戦後の無軌道で不道徳(と言われていた)若者の姿が描かれた。
その登場人物たちのファッションスタイルを真似た若者達が多く見られるようになり、一種のつっぱりが誕生。彼らは「太陽族」と呼ばれるようになった。そのスタイルは、スポーツ刈りの前髪を短く刈りそろえないで額に垂らしておく髪型、Tシャツ、アロハシャツ、サングラスというものだった。