作り手として、当時の監督たちは時代の変化に順応しなくてはいけなかった。
そうです。でも、トーキー時代に向かっていく日本の監督たちの準備の仕方は、活動弁士の文化が定着していた分、欧米とはまた違っていたとも思います。語り芸をルーツに持つ日本特有の発展のしかたというか……。
活動弁士を軸に日本映画史を遡っていくと、全て関連しているのがわかりますね。
映画の講義みたいでしょう(笑)。本当に調べれば調べる程興味深いですし、「なんて面白いんだろう!」と思いました。
『カツベン!』の「活動弁士」もそうですが、周防監督の映画は深掘りするテーマが多いと感じます。映画のアイディアはどのようなところから生まれるのですか。
「驚き」です。それも、日常の中で体験する“驚く”が大事。
映画監督として世の中を見ると、自分が思う面白い映画のスタイルに当てはめて現実を見てしまいそうになります。映画を作って生きている人間としては、ネタを探さないでいることはむしろ大変なのですが、なるべく“探さない”ように心がけています。
あくまで日常の中にある「驚き」が着想源になっているのですね。
今の日本で生きている人間として、普通に「びっくりした!」というものに出会うことですね。なおかつ、一緒に生活している妻や、友人に「こういう事があった」と話して笑ったり共感してもらって、解消するなら映画を作る必要はない。つまり、それでは解消できないような、世界中の人に向かって「こんな面白いことがありました!こんなにひどいことがありました!」って叫びたくなったら映画を作ります。だから、驚きの種類によって映画になったりならなかったりしますね。
『カツベン!』もサイレント映画に対する驚きからスタートしたとお話されていましたが、その他の映画はどうでしょう?
たとえば刑事裁判事件を描いた『それでもボクはやってない』は、「裁判ってこんなだったの?」という疑問から始まりました。それは「裁判ってひどい、こんなことをしている」と周りの人に言っても解消できない。世界中の人に向かって言っても解決できるかわからないですが、とりあえず叫びたい、と思って作ったのが『それでもボクはやってない』です。
社交ダンスを題材にした『Shall we ダンス?』は、東宝ダンスホールで踊っている人たちを見た時の驚きを皆に伝えたかった。だって、会社帰りのサラリーマンがそそくさと更衣室に消えて、ばしっとスタイル決めて。それで、女性をお姫様のようにエスコートして、気取って踊り出すわけですよ。その表情、動きを見て、「こんな日本人見たことない!」と思ったのです。
『それでもボクはやってない』『Shall we ダンス?』は両作品とも社会的に反響が大きく、多くの人が話題にしましたね。
本当に嬉しいです。だって共感でしょ?僕が驚いたことを「ね、面白いでしょ!」って言ったらみんなが「面白い!すごい!」と共感してくれたのだから。逆に、僕が特殊すぎて「どこが面白いの?」って言われたら寂しいじゃないですか。
『カツベン!』も、過去の作品も、緻密な取材・リサーチに基づいて制作されている印象を受けます。今までで最も取材など事前準備が大変だった作品は何ですか。
それは、やはり『それでもボクはやってない』です。
どのような点が大変でしたか。
まず、『それでもボクはやってない』は法律、司法の話なので、絶対に嘘があってはいけません。現実の法律、現実の裁判所のシステム、検察官、弁護士の仕事ぶり、全てを忠実に再現した上で、僕の物語が構築されないと、全部が嘘になってしまうから。たとえば、“ここですぐ弁護側が反論した方が面白くなる”と思ったとしても、現実の裁判で絶対にあり得なければやらなかった。
事実と異なる部分があることで、映画が成り立たなくなってしまうと考えたのですね。
そうですね…例えば、今回の『カツベン!』みたいに楽しい映画は、どこかで飛躍があったり誇張があったりしても、面白ければ最終的に許されるところがあります。
そんな中でも自分自身のことを言うと、知らないでつく嘘はつきたくないタイプ。“本当は違うけど、こうした方が面白い”とか、知っていて嘘をつくような設定はあってもいい。知らなくてうっかりつく嘘にはしたくない。
『それでもボクはやってない』の話に戻ると、たとえ意図したものであっても事実と異なる設定を入れたくなかった。ましてや、うっかり事実と異なっていた、なんてもってのほかです。
それこそ、よくドラマの裁判シーンで、いきなりサプライズな証人が法廷に現れてびっくり!みたいな場面がありますが、あり得ないですよ(笑)。証人申請しなかったら法廷に立つことはできないんです。システム上、検察も裁判所も事前に知らされていない証人が現れるはずがない。そういう、現実ではあり得ないことをやりたくなかったのです。
そうなると、裁判はもちろん、法律・司法に関して知っている上で撮影に取り組まなければならないですね。
脚本を書くために3年くらい取材して、刑事訴訟法まで読みましたからね。「大学行った方がいいんじゃない?!」と思うぐらい、徹底的に取材しないとできなかった映画なので、桁違いに大変でした。
あらためて、映画という娯楽の魅力はどこにあると思いますか。
映画の魅力は「アクション」です。その「アクション」をどう作り、どう切り取るのか、ということが映画監督の仕事。そもそも、動かなかったら映画ではないから、魅力であり原点でもありますね。
「アクション」が原点というと具体的にはどのようなことでしょうか。
「映画の父」と呼ばれるリュミエール兄弟(※)が最初に撮った映画は、“工場から出てくる人たち“とか“駅に列車が到着する様子”とか、ただ単に起こっている現実のアクションでした。たったそれだけのアクションでも、当時は世界中の人が「写真が動く!」と本当に驚いた。
そこから、チャップリンやバスター・キートンが登場して、体を張ったり、変な歩き方をしたり、現実には見ることのできない「アクション」を見せることで皆を楽しませようとした。ジャッキー・チェンも彼らの系譜をたどっていますが、驚きのある「アクション」作りが映画人のテーマになっていったのです。
※リュミエール兄弟…フランスのルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟。 “シネマトグラフ”を発明し、工場から出てくる人々を撮影した映画『工場の出口』を世界で初めて有料上映した。
自然発生的な「アクション」から「アクション」の演出へと向かっていったわけですね。
それで、驚くような「アクション」の次は、心理描写をどう映像で伝えるのか、ということに広がっていきました。技術革新とともに、映画表現の幅もどんどん広がって今に至っています。それでもなお、原点にあるのは「アクション」で、そこは映画とは切っても切り離せない部分。だから、映画の魅力は「アクション」にあると考えます。
あとは、単純に大きなスクリーンを皆で一緒に見て、共感して盛り上がるメディアだ、というところにも面白さがあるかもしれません。
多くの人と一緒に見ることが映画の魅力であると。
“皆で映画を見る楽しさ”を、誰もが実は心のどこかでわかっているのだと思います。それをはっきり証明しているのが、今話題に上がる「応援上映」。声を出して、一緒に歌ったりもする、あの楽しさです。
「応援上映」は活動弁士付きの映画上映と共通しているところがあるんですよ。
活動弁士付きの映画上映では、活動弁士の語りの他に生演奏もあったし、観客からの掛け声もありました。観客は芝居感覚で見ているから、「待ってました!」とか言って、面白ければ大声を出して笑っていたのです。逆に言うと野次も飛び交っていましたし、サイレント映画時代の方が劇場はうるさかったと思います。映画館は、必然的にライブパフォーマンスの会場となっていました。
さらに、活動弁士の語りも毎回の上映で変わっていく。今日の客層だと受けないな、と感じたら語りを変えていく。それで、新しい映画が上映されるとなったらまた新しく考えていく。まさにライブですよね。