森山未來が、映画『アンダードッグ』で主演を務める。演じるのは、“かませ犬(=アンダードッグ)”としてリングに上がりながら、ボクシングにしがみつく日々をおくる“崖っぷち”プロボクサーだ。
森山未來は、1999年に舞台で本格的デビュー。テレビドラマ『WATER BOYS』、映画『世界の中心で、愛をさけぶ』『モテキ』などを代表作に持つ。演じる場所に捉われず、幅広い分野でキャリアを積んでいるのも森山の魅力。幼少期よりジャズダンス、タップダンス、クラシカルバレエ、ストリートダンスを学び、ダンスパフォーマンスや演劇作品にも参加している。
ボーダーレスに活躍する森山未來。映画『アンダードッグ』での役作りに迫ると、“ジャンルレスな表現者”を志す彼の思いや魅力を垣間見ることができた。
森山さんが『アンダードッグ』で演じた末永晃は、元日本ライト級1位のプロボクサーという役柄です。どのような役作りをして撮影にのぞみましたか。
まずはプロボクサーであるという説得力を持たせるために、身体作りから始めました。『百円の恋』『あゝ、 荒野』にも参加したボクシング指導の松浦慎一郎さんについてもらって、スパークリングのように実践的なトレーニングや、試合の撮影前にはプロのボクサーも行っている“カーボ・ ローディング”という食事療法を行ったんです。
肉体の仕上がりは、監督も驚くほどだったとか。そこまで徹底的にトレーニングする役者さんは、あまりいないのではないでしょうか。
どうなんでしょうか。僕の場合は、松浦さんに「本格的に練習したい」とお願いをして、プロのボクサーさんたちともスパークリングをやらせてもらいました。最初の頃は、パンチをばんばんもらって。失神まではいかなかったけど、自分がどんな状況にあるのかわからなくなるくらいの衝撃も受けました。そういえば、スパークリング中に差し歯が取れたこともあった(笑)。
ただ最終的には、松浦さんからダウンをとったんです。松浦さん、くやしそうだったな(笑)。
すごい(笑)。素晴らしい身体能力ですね。
幼い頃から踊っているので、身体を動かして形を覚えることには抵抗がなくて。ただ、本当に人を殴る・殴られるという感覚をつかむのが難しかったです。
実際に殴ったことがある人、殴られたことがある人の反応って、そうでない人とは違うじゃないですか。この部分は、僕にとって『アンダードッグ』で初めて体験することでした。相手と対峙するときの距離感や、のびてくる腕に対するリアクションにも、リアリティを持たせたかった。だから、スパークリングなどの実践的なトレーニングを重ねました。
精神面では、どのような役作りをしたのでしょうか。
晃という人物を考える上で、まずはボクシングの世界に身を置く人たちについて調べました。松浦さんからお話を聞いたり、ドキュメンタリー映像を見たり、本を読んだり。それで分かったことは、スポーツというものはどんな競技も楽じゃないというのは当たり前ですが、それにしても、ボクシングは過酷な世界だということです。
どのようなところが過酷だと思ったのでしょうか。
ボクシングだけで生きていける人は、本当に一握りしかいないんです。ボクシングは、日本ランカーだと飯が食えない。世界ランカーに入ってはじめて、ボクシングだけでご飯が食べれるようになる。
森山さんが演じた晃も、デリヘルの送迎で日銭を稼いでいました。
そうなんです。『アンダードッグ』の晃も同じように、副業をしなければ生計を立てることができない。晃と同じように、実際にほとんどのボクサーは副業をしながら、日々のトレーニングや食事制限を欠かさずにやらなければならないし、試合の一か月前からは身体にあまりにも負担がかかる減量を始めなければならない。そして、試合の日には闘争心をもって、憎くもない相手を殴り、失神させる。過酷な生活だなと。
でも、だからこそ、晃が噛ませ犬になってでも、ボクシングにしがみついてしまういうという気持ちも理解できるんです。
過酷な毎日を耐え抜いているからこそ、ボクシングにかける思いが強くなると。
彼は、負けが続いても「一回勝てば、返り咲ける」「試合に勝てば、自分の人生の流れまでも変えることができる」っていう希望をどこかに持っている。何より、リングの上にあがって強烈なスポットライトをあびながら、四面を観客に囲まれて人を殴るっていうことは、もう快楽なんだなと。中毒性に近い。
そんなことを、資料で読んだり、映像を見たりというのはもちろんですが、一緒にトレーニングをしたプロボクサーさんたちの人生を垣間見たり、自分も実際にリングに立って殴り・殴られたりと、実際に身体を通すことで、結果的に精神面でも膨らんでいくものがありました。
晃は、多くを語らない寡黙な人物でもありました。
セリフを覚えなくていい、っていうのは楽でしたね(笑)。ただ、もちろんしゃべらないからこそ、どういうことを考えている人なのかということを、表情や仕草で伝える必要があって。実は僕、晃って、もともと寡黙な人間ではなかったと思ってるんですよね。
昔は無口では無かったと。
日本ランク一位の時なんかは、明るくて、悪く言えば横柄な人間だったかもしれない。それが、試合で負けが続いて、私生活にまで負のムードが及んでいく内に、変わっていったんじゃないかなって。
『アンダードッグ』の物語は、日本ランク一位の時から7~8年後のシーンからスタートしますね。
そう。この物語が始まる頃というのは、もう既にもがき尽くして、苦しみまでもが形骸化してしまっている時期なのかなと。噛かませ犬になってでも、ファイトマネーで何となく日々を生きていくというのが習慣化してしまっている状態。そういう人の無口って、どういうものなんだろうということを考えて演じました。
「習慣化した無口」をどう演技に落とし込んだのでしょうか。
発したい言葉や熱量は体の中に溜まっているけれども、出し方がわからない、出すタイミングを失っているというイメージで演じました。寡黙な印象というのは他の人とのコミュニケーションの中で見えてくるものだと思うのですが、そこを大切にしました。
晃は、周囲からかけられる苦言や浴びせられる罵声の内容なんて、自分でよく自覚している。だけれども、負け続けているっていう現状があるから、何も言い返せない。他人からのアドバイスが、身体を通り抜けてしまっているんだろうなと。
晃を取り巻く人たちとのコミュニケーションの中で、彼の人物像を浮き彫りにしていったのですね。
晃の周りにはいろんな人がいましたよね。苦労をかけている家族や、ジムの社長には頭があがらない。でも、日本ランク一位になったプライドもあるから、サウナで一緒に働く外国人労働者とかデリヘル嬢とか、彼自身が目下だと思っている人には多少の軽口を叩く、みたいな。
こうして話していると、晃の人間性ってひどいな、とも聞こえるかもしれないですが、一方で彼の生き方にはすごく共感する部分もあるんです。
晃のどんな部分に共感したのでしょうか。
「リングの上でこそ自分は輝ける」「自分の存在を成立させるよすがとしてリングがある」という気持ちは、僕が俳優やパフォーマーとしてステージに抱いている想いと同じだなと感じました。ステージに立っている自分がいないと、人生そのものが成り立たない。あと、誰でもそうでしょうが、成功までの道のりが運に左右されるところが似ているなと思いました。
運に左右されるとは、具体的にどのようなことですか。
たとえば今、世界バンタム級のチャンピオンは井上尚弥さんですけど、「あいつさえいなければ、俺絶対チャンピオンだったのに」と思っている人は絶対いるんじゃないでしょうか。一生懸命練習すれば誰もがチャンピオンになれるというわけではない。そこに関しては運に近い世界です。
俳優やクリエイター、アーティストなどの世界も同じで、勝ち負けやランキングこそ無いけれど、どこに目をつけられて、どうメジャーになるかなんて、時の運だったりする。
一生懸命頑張ったからといって、必ずしも報われる世界ではないと。
はい。もちろんプロジェクトや作品そのものが素晴らしいから日の目を見たという人もいますけど、ひょんなことでたまたま有名になったという人もいるし、成功者とそうでない人の線引きというのは曖昧なものです。
僕は、ありがたいことにいろんな環境に恵まれて今の立ち位置にいることができていますが、違う辿り方をした結果、『アンダードッグ』の晃みたいに落ちぶれてしまう可能性もあっただろうなと思うんです。だからこそ、表現者として「著名であることの在り方」みたいなものにいつも考えを巡らせます。答えは出ないんですけど。