1960年代になると、既製服業界の成長とともにオートクチュールは衰退の一途をたどっていた。さらに戦後生まれのベビーブーマー世代で成人するものも出始め、人口比率も戦前2倍程度まで増えた。若いエネルギーの勢力が増し、エレガンスよりも、自身の価値を求めていた。ストリートの勢いが強まっていた。
ユースカルチャーからモッズ、ミニスカート、ジーンズ、ヒッピーなど、オートクチュールから降りてくるファッションではなく、若者が自身でファッションを選び、ファッションによりアイデンティティを示しはじめた。ミニスカートはストリートでの人気からハイエンドにも波及。ユースカルチャーからファッション、新しいスタイルが登場し、大きな転換期を迎える。
若者文化が生まれる以前、若者はどんなスタイルだったか?
実は若者ファッションというカテゴリーは存在していなかった。若い女性でも母親と同様のスタイルで規律に従った同質的なもの。ディオールなどオートクチュールやハイファッションのデザイナーから生み出される「大人エレガンスの世界」から降りてくるものだった。
このような中でも次第に若者は”自分達のスタイル”を求めるようになっていく。
1960年代のロンドンで若者文化の集まる場所、ストリートファッションの発祥の地はキングスロードのチェルシー地区だった。そして、チェルシー地区のファッションを着こなす女性のことをチェルシーガールと呼んだ。この時期のロンドンを”スウィンギング・ロンドン”などと呼び、ミニスカートの他にも、モッズなどのスタイルも生み出します。
音楽ではビートルズ、ローリングストーンズ、美容師ではヴィダル・サスーンなどイギリスの文化は旋風を巻き起こす。
ミニスカートはマリークワントが発明したものという意見もあるが、そうではない。チェルシーガールのスタイルの中から自然に生まれたもので、実は誰かの発明ではないのだ。起源としては、ジバンシィなどが発表していたサックドレス(シュミューズスタイル)が徐々に変化してミニスカートになったとも言われている。
マリークワントは、ロンドンのトレンドセッターであり、チェルシー地区のファッションそのもの。より多くの人のために初めてミニスカートを商品化したデザイナーと言える。そのような点で、マリークワントは20年代のシャネルのようなカリスマ性をもった人物。シャネルと異なるところは、マリークワントは、より多くの若者、等身大の若者のレイヤーに自身を置いていたので、当然アイテムも多くの人々が購入できるような展開を見せる。
チェルシーの流行をそのまま表現するクワントのスタイルは、ミニスカートに、ヴィダルサスーンのカットしたショートボブの髪型。そこからマリークワントの影響を受けたデザイナーも登場し、ミニスカートは徐々に普及。65年には、なんとオートクチュールコレクションで、クレージュが発表。世界的にも普及が加速した。
1960年代以前の理想の女性像は、マリリン・モンローのような豊満でセクシーな女性やグレイスケリーのようなエレガントな女性。しかし60年代になると、ロンドンのイメージを表現した女性は全く逆。小柄で、胸は小さく、痩せている、ごく身近にいそうな活動的な女性像。その代表格がツィギーだ。日本でもツィギーの来日とともにミニスカートが爆発的に流行。50年代にオードリー・ヘプバーンが登場したのは、その前兆だったのかもしれない。
メンズファッションは18世紀から固定した服装形式として、スーツが変化することなく着用されてきた。スーツは18世紀当初に実用着として取り入れられたのだが、その当時の目的はなくなり、それは社会的な、ビジネスの場での制服の役割に変化してしていた。体制社会のシンボル的存在になっていたのだ。そんな1世紀以上安定していたメンズファッションの流れにもストリートファッションの流れが押し寄せてくる。
モッズはロンドンの低所得層者から生まれたサブカルチャー。高所得層への反抗からくる自己表現として生まれた。最初は細身のテーラースーツから始まりますが、徐々にカラフルなデザインへと変化。
ロンドンのカーナビーストリートを中心に発信された、モダーンズ(モダニズム)を略してモッズと呼ばれたファッションの特徴は、長髪、花柄や水玉など派手な色彩、細身のスーツをテーラーで仕立てて、細身のシャツ、股上の浅いスリムパンツ、ブーツなど。カラーはウィメンズファッションの要素を大きくもったもので、女性化したようなムードを持っているが、男が女性的になったわけではない。反体制的なシンボルとして生まれた自己表現がそのようなファッションを生み出したのだ。
モッズスタイルはビートルズ、ローリングストーンズが身に着け、さらに世界的な注目が集まります。ミニスカートともににスウィンギングロンドンというイメージで世界へ発信されていく。
※同時期、より反抗的なグループ、ロッカーズが存在していたことから、正確にはモッズ以上に「高所得層への反抗」していた人々がいた。
日本でもブームになる。きっかけはもちろんビートルズ。ビートルズが来日した1966年、音楽的な衝撃とともに、彼らが着ていたモッズファッションは、日本のメンズファッションにも大きな影響を与え大ブームになった。
ヒッピーファッションヒッピーは1960年代後半の最大のサブカルチャー。ドラッグ、音楽、ファッションが融合して生まれた文化だった。
1960年代、アメリカではベトナム戦争の反戦運動、人種差別の反対(公民権運動)、フランスでは学生を中心とした5月革命、日本でも学園紛争など若者は大暴れ。ヒッピーは近代の政治、社会などへの疑問から出発し、「ラブ&ピース」の理想を掲げ、一つの対抗文化を生み出していく。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」(1967)はその時代を象徴する曲とされている。1969年、今や伝説となる「ウッドストックフェスティバル」がニューヨーク郊外で開催され、なんと50万人のヒッピーが集まる。
ヒッピーの中で、ファッションは自らのイデオロギーを表現するものとして定着。メインで取り入れられるのはTシャツ、ジーンズやフォークロアなど。ジーンズはもともと作業着などに使われていたが、ヒッピーや反戦を唱えるフォークシンガーが着用したことから、若者の文化に定着していく。
フォークロアは60年代半ばから広まった。もともとフォークロアとは、民俗風習、部族の衣装の特徴を用いたファッションで、インド、アフリカ、東欧、中近東系の衣装やアクセサリーのスタイルであったり要素を入れたもの。(70年代、ケンゾーがハイファッションの世界でもフォークロアやエスニックファッションを取り上げる)
代表的なスタイルは長髪にヒゲをはやし、刺繍の入ったカフタン、バンダナ、スカーフなどになります。カラーは花柄やカラフルで、様々なカラーを混ぜた混沌とした色が使用された。また、意図的に「服を着ない」というスタイルも登場。男性はもちろん、女性でさえも裸になることもあった。ボディペインティングも同時に出てくる。
1960年代に暴れまわったヒッピーも1970年代前後の時期には、長い髪を切って社会の一員と戻っていく。
背景にはさまざまな理由があるが、一つは反戦運動や学生運動が過激化した点。ヒッピーがカルト集団化して事件も起こり、例えば「戦場のピアニスト」で有名なロマンポランスキー監督の妻で女優の妊娠中のシャロン・テートを殺害する事件も起こった。
また、ヒッピーの活動でベトナム戦争は止められなかった点。ヒッピーに影響を与えていたミュージシャンのジャニス・チョップリン、ジミ・ヘンドリックスがドラッグ中毒で死んでいくといったことも一員に上げられるだろう。
理想とはかけ離れていった世界が、ヒッピーの終焉へと導いていったのではないだろうか。
1960年代の後期のメンズファッションに大きな影響を与えた考え方で、男性ももっと服装に個性的を取り入れようと言うのが基本アイデア。それを雄孔雀(ピーコック)に例えたことが由来。
日本でも紳士服業界では男性のワイシャツとネクタイのカラフル化が推し進められた。フリルつきのシャツや柄のパンツに代表されるモノセックス感覚のファッションが男性にも取り入れられ、これをピーコックファッションと呼ぶようになった。