Q.初めての海外旅行はいつですか?
1962年、私が19歳の時です。前年に母が海外へ行って、翌年には私も。海外旅行といっても、今のようにメジャーな出来事ではないのでどこに行っても大変で。クレジットカードなんてものはなかったですし、日本円で持っていっても、ちょっとお買い物するとすぐなくなってしまう。
今のように乗り継ぎもうまくはいかないですし、南回り便で欧州へ行くには約30時間もかかりました。飛行機に日本人は誰も乗っていないですし、空港も小さいところが多かった時代ですからね。
Q.旅先ではどのような経験をされましたか。
観光ではなく生活から入ることを大切にしていました。現地での経験はぜんぶ刺激的、どこに行っても感動していましたね。“一人で旅すると小さなこともみんな身体に入ってくる。”怖い思いや寂しかった経験もいい思い出です。
パリでは、雑誌『エル(ELLE)』の編集長の家でホームステイをしていましたが、彼女がミニクーパーに乗せてくれて、「これがパリだ、これがフランスだ」って生活にかかわる場所を見せてくれました。彼女の家にいるだけで、食事の仕方やお客様のもてなし方などを自然に学ぶことができました。
他にも、ビートルズ、ツイッギーの影響で活気に溢れていたロンドン、ヒッピースタイルが流行っていたニューヨークにも行きました。本当におもしろい時代でしたよね。先日公開された映画『ボヘミアン・ラプソディ』で描かれたブティック「BIBA」はいつも通っていましたし。映画を見て、こんな壁があったわ、あんな雰囲気だったわって思い出していました。
Q.海外旅行がきっかけでパリ・コレクションを意識するようになったのでしょうか。
いえ、母の決断です。1953年にディオールが来日し、帝国ホテルでファッションショーを開催したのですが、そこでAラインドレスを見て、母は「やっぱり本場(=パリ)に行かなきゃいけない」と言っていました。
実際にパリを訪れた母は、パリに身を置いていく方が私にとっては良いのではないかと判断したのでしょう。なので、初めはショーをやるために…ということではなくて、仕事をする上でパリに身を置いた方が良いと環境を作ってくれたのです。
パリへ渡った鳥居ユキを待っていたのが、ジャン・ジャック・ピカールとの出会いだ。エディ・スリマン、リカルド・ティッシなど世界の名だたるデザイナーの才能を開花させてきたファッションコンサルタントで、エルメス(HERMÈS)のPR、LVMHのアドバイザーなどを歴任したファッション業界の重鎮が、ユキ トリヰのパリデビューを支えた。
Q.ジャン・ジャック・ピカールさんと出会った頃のことを教えてください。
ジャン・ジャック・ピカールさんと出会った頃は、日本にはまだアタッシュドプレス(=ブランドのプレス代行)という言葉がない時代です。プレスという言葉を聞くと、アイロンをかける人だと思われたほど。今では当たり前になっていますが、スタイリストという職業すら当時の日本にはありませんでした。
ジャン・ジャック・ピカールさんが、パリでデビューするなら、フランスにないもの、日本人であることを印象づけることが大切だと教えてくれました。“1週間で約100のショーがあるパリ・コレクション期間、ジャーナリストへアピールして、印象的にユキ トリヰというブランドを覚えてもらわないといけない”と、彼が最初からリーダーシップを取ってくれました。
Q.そこからパリ・コレクションに向けての準備が始まるのですね。
ジャン・ジャック・ピカールさんと一緒に生地作りをスタートさせました。ユキ トリヰの象徴であるフラワープリントと日本の伝統的な柄のミックス。十字絣のような洗練されたシンプルな和柄と合わせると、よりユキ トリヰの花が魅力的になるよと。フランス人好みの日本を共に作り上げていきました。
Q.「フランス人好みの日本」とはどのように解釈されたのでしょうか。
割合フランス人ってデリケートな感じが好きですよね。見返しの色が違うとか、そういう細かいデザインがよくわかり、喜んでくれる人たち。デビューコレクションでも繊細な表現は意識して使用していました。
Q.実際にどんなものを発表されたのですか。
浴衣などを作る老舗の呉服屋「筑前」さんにオリジナルの絣(かすり)を作ってもらいました。日本古来よりある「井桁(いげた)*2」をデフォルメするなど、私流に直していただいて。浴衣の生地は洗うといい味が出ましたし、紐もポイントで使用しました。
発表したのは、Tシャツにバミューダパンツ、ミニスカート。Tシャツがファッションではない時代だったので新鮮に映ったと思います。
*2 井桁:井の字をひし形に図案化した文様・紋所・マーク。