Q.当時のパリコレでTシャツを発表しているブランドはなかったのでしょうか。
ないですよね。みんな着るっていうより魅せることを大切にしていたので。ふわっとしたドレスとかが多かったと思います。
Q.デビューコレクションの反応は?
雑誌に載せたいという編集者の声から反響を感じました。終わってすぐに貸し出しが始まって、明日から夏の撮影だからってパーって持っていくんですよ。当時まだパリにお店はなかったのですが、ヴィクトワール広場にあるセレクトショップ「VICTOIRE」のマダムは、すぐに買い付けにいらっしゃって、それからずっと「VICTOIRE」に卸していました。
ユキ トリヰのデビューコレクションは、雑誌『エル(ELLE)』が「何という個性!」と評価。「パリジェンヌよりパリっぽい」と表現されるなど、すぐに海外のエディターの目に留まった。
Q.当時、ユキ トリヰ以外にフランスの雑誌に掲載されていた日本ブランドは?
イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)やケンゾー(KENZO)が載っていました。ハナエモリ(HANAE MORI)はニューヨークでコレクションを発表されていて、私のデビューコレクションの数か月前にパリ・コレクションでデビューされていました。
Q.デビューコレクションと同じピースを日本でも発表したのでしょうか?
もちろん。パリ・コレクションでは、一番印象深くみせるため発表した点数が少なかったので、東京では一部・二部に分けて、もう少しボリュームのあるショーを行いました。
十字絣とか細かいデザインが多く、普通にショーをやるとお客様には見えない。なので、有名な照明家の藤本さんにショーの照明演出をお願いしました。彼女は、遠くから見てもわかるようにとブラックライトを仕込んでくれて、小さな模様も白い部分がぴかっと光る演出をしてくれました。
ヘアメイクは宮崎定夫さんにお願いして、モデルが出る度にヘアを変えました。その時は、パリでお世話になったファッションコンサルタント ジャン・ジャック・ピカールも日本に来ていたのですが、日本のスタッフにびっくりしていましたよ。「フランス人は不器用でそんなことできない。日本人の技術は素晴らしい」と評価してくれました。
Q.日本とフランスでお客さんの反応に違いはありましたか?
全然違いました。そもそもファッションの捉え方が、日本とフランスでは違っていました。日本は、おしゃれ=よそいきと捉えていて、普段からおしゃれをするという感覚がなかったのです。(ミニスカートやバミューダパンツなどリゾートを意識した新作を発表しましたが)バカンスという概念もありませんでしたしね。
・当時のパリっ子は、日本と比べておしゃれでした?
いいえ、パリの方がおしゃれだというのではなく、これがパリだという感覚に近いです。パリは内容が良ければ評価してくれますし、フランス人は何事も中身で判断するのです。
日本の若い子たちは、エルメスやルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)を持っているわけですが、フランス人からすると、そのスタイル(ハイブランドのアイテムを持つ)でいるためには、持つ人そのものが対等の価値でいないといけないと思うわけです。ファッションやスタイルの捉え方が全く違うのです。
Q.パリ・コレクションを経て、デザイナーとして新しい目標は生まれましたか。
いつも次のシーズン、次のシーズンって目の前だけを見てきました。先を見据えて…というよりは、前だけ見ることを積み重ねてここまで来ました。
コレクションを一つ作るにも半年では決して出来ない。ショーの準備をやっている最中から、次のショーのことを考えて、あがってきた生地を確認して、試作を作ってと、並行して行っています。それだけでも目一杯時間がないくらい忙しいので、これまで一度も長く先を見据えて…という考えはしてこなかったのです。
ユキ トリヰのパリ・コレクションデビューは1975年。その数年後となる1980年代には“黒の衝撃”と表現されたヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)、コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)がパリ・コレクションに登場した。
Q.80年代、山本耀司さんや川久保玲さんの活躍をどのように見ていましたか?
パリでの評価は、やっぱりすごかったですよ。フランスはもちろん世界中にああいったスタイルはなかったわけですからまさに衝撃だった。アンティークとは全然違う、新しい自由な発想でしたね。あの時代になったとき、「私とは全然違う。カラフルな色使いをしていた私の時代ではないな」とは感じました。
でも、ファッションって波がある。それなりにやっているとまた新しい波が来ます。毎シーズン、毎シーズン流行のものが生まれていく中で、大切なことは自分がそこにいること、時代と一緒に歩むこと。別の世界観になっていってはダメで、時代や流行の流れを感じることがとても大事だと思うのです。
当時、フランスでコレクション発表を続けていたのは流行を感じ、その流れを踏まえてデザインすることが目的の一つでした。
Q.“黒の衝撃”の80年代は流行をどのように取り入れていましたか。
真っ赤なシルクスカートをパリのお風呂場で洗ったことがあります。本当にキレイなスカートでしたが、洗ってほどけたり、縮んだりした方がなんかいいなって感じたのです。その当時の今風っていうのかな。
これは、山本耀司さんや川久保玲さんと一緒に時を経たからできたことだと思います。東京のスタッフには「こんなの作ってない」って、日本から送ったときと全く違う状態になっていたので驚かれましたけども…。