2021年9月17日(金)、ライナー・ホルツェマー監督のもと、メゾン マルタン マルジェラ(Maison Martin Margiela)の創業者・デザイナーであるマルタン・マルジェラのドキュメンタリー映画『マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”』が公開される。同作では、偉大なデザイナーでありながらも、20年間のキャリアを通して一切公の場に姿を現さなかったマルタンが沈黙を破り、自分の言葉でこれまでの全てを語っている。
マルタン・マルジェラは、1959年、ベルギー・ランブール生まれ。祖母の影響でファッションの世界に興味を抱き、18歳でアントワープ王立美術アカデミーに入学。その後、ジャンポール・ゴルチエ(JEAN PAUL GAULTIER)の下でアシスタントとして活動し、1988年にメゾン マルタン マルジェラ設立に至った。
デビュー以後は、その前衛的な作品が故賛否両論を巻き起こしながらも、 “時代の異端児”として常に新しい美的価値に挑戦し続けた。そして20年間の活動の中で、エルメス(HERMÈS)のデザイナーに就任するなど、パリの代表的なデザイナーへと成長。しかし絶頂期とも思えた2008年に、突然の引退となった。
今回は、映画の中で紹介される“マルタン・マルジェラの全て”をもっと奥深く知れるよう、監督のライナー・ホルツェマーの言葉を踏まえつつ、マルタン・マルジェラの歴史と変わらないブランドの哲学を紐解く。
マルタン・マルジェラがファッション界に興味を抱いたのは、ドレスメーカーであった祖母からの影響が大きかったという。マルタンにとって祖母の絵画は今でも大切な宝物だ。そして、ファッションデザイナーを志すようになったのは、クレージュ(courrèges)のショーに感銘を受けたことがきっかけだった。
映画の中でも印象的なシーンのひとつである、マルタンが初めて作った服を語る場面。ファッションデザイナーを志すようになったマルタンが、初めて作った服はバービー人形のための衣装だったという。ピークドラペルにコサージュを添えた小さなジャケットは、すでに“マルジェラ風”のデザインだった。
映画の撮影時には、髪がぐちゃぐちゃになっていたバービー人形を見て「マルジェラのモデルみたいだね」と、ライナー監督に話していたそうだ。
1980年代、川久保玲や山本耀司らが巻き起こした“黒の衝撃”はマルタンに大きな影響を与えた。また、同じく“黒の衝撃”に影響を受けたのが、マルタンとともに学生生活を送り、後の1990年代に革新的なモードをもたらす“アントワープの6人”と呼ばれる面々。映画の中では、“アントワープの6人”と過ごす学生生活、そして自らが影響を受けた川久保の存在についても触れている。
マルタンがファッションデザイナーとして、パリでコレクションを発表する少し前、1981年にパリで起こった“黒の衝撃”。“黒の衝撃”とは、川久保玲、山本耀司ら日本人デザイナーが巻き起こしたムーブメントで、当時タブーとされていた黒を前面に押し出し、まるでボロのようなルックを展開することで、正統派モードの概念を崩した出来事だ。マルタンはその出来事に大きく影響を受けたデザイナーの1人であり、川久保らのアヴァンギャルドな精神に感化され、自身のモードを確立させていった。
1985年、当時ベルギー政府がモードの活性化のために企画したことで、若いデザイナーの創造性と生産工場を結びつけることを目的としたコンクールに、マルタン・マルジェラ、ドリス ヴァン ノッテン、アン ドゥムルメステール、マリナ イー、ウォルター ヴァン ベイレンドンク、ダーク ヴァン セーヌ、ダーク ビッケンバーグの7人で挑んだことがきっかけに。マルタンは、ジャンポール・ゴルチエに就職が決まったことで、そのメンバーから抜けることとなり、後にその他の6人を“アントワープの6人”と呼ぶようになった。
ジャンポール・ゴルチエで約4年の修行を積んだのち、1988年にメゾン マルタン マルジェラを設立し、1989年春夏シーズンのパリ・プレタポルテ・コレクションにてデビューしたマルタン。映画では、貴重なデビューコレクションの映像が流れる中、デビューからブランド黎明期についての真相が詳細に語られている。
当時は、煌びやかなファッションに身を包む高級志向の時代。素材も、デザインも、そしてコンセプトも“破壊的な”マルタンのデザインは、流行からはかけ離れたものだった。
例えば、マルタンが世界を驚かせた、ヴィンテージドレスをリメイクする服は、当時のモードの常識で言うと、考えられないことでもあった。「お金を払ってヴィンテージのドレスを買う人なんているの?」「マルジェラって変だよね」と言われるほどだったという。メゾン マルタン マルジェラを支持するファンはいたが、それはごく一定層だけ。そんな中で、マルタンは世界に受け入れられるため、戦わなければならなかった。
自分のデザインを貫き通したマルタン。そのマルタンのデザインにやっと“世界が追いつく”ようになる。
これは映画では語られていない話だが、10シーズンを終えた頃、マルタンはパリの街で自分が手掛けたデザインのコピー商品を見つけ、世界に受け入れられたと実感したのだという。ライナー監督はその話を聞いたときに、「とても誇らしいことだっただろう?」と尋ねたそうだが、答えは意外にも「NO」。受け入れられたことが嬉しい反面、マルタンは落ち込んだそうだ。