スペインのバルセロナを中心に活躍した建築家、アントニ・ガウディ。ガウディが携わった作品のなかでもサグラダ・ファミリア聖堂は、長らく「未完の聖堂」と言わてきたものの、完成の時期が視野に収まってきた。この聖堂に焦点を絞り、ガウディ建築の造形と発想に光をあてる企画展「ガウディとサグラダ・ファミリア展」が、東京国立近代美術館にて、2023年9月10日(日)まで開催される。
サグラダ・ファミリア聖堂は、ガウディが手がけた聖堂として知られている。しかし、1882年に着工したこの聖堂は、それ以前に16年の前史を持つとともに、ガウディが没してから現在に至るまで建設が続けられている。それでもなおサグラダ・ファミリア聖堂がガウディの作品たりうるのは、独特の造形を示す外観や建築構造などに、ガウディの独創性が宿っているからだ。
ガウディの独創的な建築はしかし、無から誕生したのではなく、西欧のゴシック建築やスペインならではのイスラム建築、ガウディが生まれたカタルーニャ地方の歴史や風土などによって育まれた。企画展「ガウディとサグラダ・ファミリア展」では、100点を超える図面や模型、写真などを交えつつ、ガウディの建築思想と造形原理や、サグラダ・ファミリア聖堂の建設プロセスを紹介してゆく。
ガウディによる建築と造形に入る前に、まず、サグラダ・ファミリア聖堂が近代都市・バルセロナの発展の明暗とともに生まれたことを、ごく簡単に見ておきたい。バルセロナは、スペインのなかでもいち早く近代化を果たし、急速な人口増加を経験した都市であった。その基盤となったのは、近代的な繊維産業である。急速な経済発展は、ガウディのパトロンとなるアウゼビ・グエルといった大富豪を生みだすこととなった。ガウディ作品の多くは、こうしたバルセロナ近代化の光を受けて育まれたのだといえる。
しかし、バルセロナの近代化の影には、劣悪な住環境と貧困に苦しむ数多の人びともまた存在した。「貧しい人びとの聖堂」として知られることになるサグラダ・ファミリア聖堂は、こうした貧困層のために構想されたものであった。宗教関連の出版と書店を運営するジュゼップ・マリア・ブカベーリャは、信仰心が薄らいだことがこうした社会不安をもたらしたのだと考え、1866年、神に救いを求める民間団体を創設。74年には、イエス、マリア、ヨセフの聖家族に捧げる聖堂の建設を提案したのだった。
サグラダ・ファミリア聖堂は、1882年に着工。初代建築家はフランシスコ・デ・パウラ・ビリャールが務め、翌年に2代目の建築家としてガウディが着任した。以後、財政難などを理由に中断を挟みつつも建設は進められ、ガウディ没後の1935年、浮彫や彫刻で装飾した東側のファサード「降誕の正面」が完成。今に至るまで建設が進められている。
ガウディは、古今東西の建築や自然を研究し、そこから独自の造形を紡ぎだしていった。本展では、「歴史」、「自然」、「幾何学」の3つ視点から、その建築様式の源泉と展開を紹介している。
ガウディは、イスラム性を土壌とするスペインならではの建築や、ゴシックといった中世ヨーロッパの建築を吸収した。その背景には、ガウディが生まれ、活躍するようになった19世紀に興った、「歴史」をまなざす動きがあるといえる。
まず、19世紀後半とは万国博覧会(万博)の時代であり、会場では世界各地の自然や歴史、風俗、産業などが紹介されるとともに、メイン会場の周辺には各地の伝統的な様式によるパビリオンが建設されている。このなかで1878年のパリ万博におけるスペイン館が、アルハンブラ宮殿を思わせるイスラム様式で建てられたことに見るように、この時代のスペインは自らの文化の源泉としてイスラム建築をふたたび見出した時期に当たっている。
中世にイスラム国となり、約800年にわたってイスラム教とキリスト教が混在する時代を経験したスペインは、西洋諸国のなかでも独自の文化を育んできたといえる。たとえば中世には、キリスト教建築とイスラム建築の特徴をあわせ持つムデハル様式が生まれている。ムデハル様式は、19世紀後半にスペインならではの建築として捉えられるようになり、この様式をリバイバルしたネオ・ムデハル様式の建築も新たに手がけられることになった。