第2章で焦点を合わせるのが、一村の千葉時代。千葉に移った一村は、約20年にわたって、畑仕事や内職をしつつも画家としての暮らしを続けた。こうしたなか、屋敷の障壁画を依頼されるなど、大きな仕事にも携わっている。さらに、九州・四国・紀州を巡る旅ののちには、新しい題材と開放的な光のもと、画風に転機がもたらされることになった。
昭和13年(1938年)、30歳の一村は、姉と妹、祖母とともに千葉へ移った。この地で一村は、周囲との繋がりを得て、画家としての暮らしを続けている。千葉時代の作品の多くは、こうしたさまざまな関係者や支援者に向けて描かれたものだ。たとえば、のどかな田園風景を描いた連作「千葉寺」は、一村の理解者となった川村家に依頼された作品である。
一村が交流のある人々に贈ったのが、小画面の色紙絵だ。展覧会という発表の場を持たなかった一村にとって、色紙絵は重要な表現方法であり、生涯にわたって描き続けたものであった。そこには身近な田園風景が、みずみずしく、時に文人画や漢詩に詠まれた情景を重ねつつ、描きだされている。
昭和22年(1947年)、39歳で画号を「米邨」から「柳一村」へと改めると、 日本画家・川端龍子が主宰する在野日本画団体「青龍社」の展覧会に《白い花》を出品。初入選を果たした。本展でも展示されている同作は、白い花を咲かせるヤマボウシや竹をモチーフに、画面にほどよい抜け感をもたらした意欲作となっている。
画号を改めた一村は、気持ちを新たに出発したものの、画壇で評価を得るための公募展では、思うように結果を残せずにいた。しかし、屋敷の襖絵や天井画の依頼を受けるなど、大きな仕事での支援に恵まれ、その時々で全力を注いだ。たとえば、昭和30年(1955年)に開苑した石川の「やわらぎの郷」では、聖徳太子をまつる太子殿の天井画を手がけている。本展では、この天井画《薬草図天井画》49図のうち、11面を特別出品している。
古典を学び、花鳥画との融合を試みるなど、千葉時代は一村にとって長い模索の時期となった。こうしたなか、昭和30年には、九州から四国、紀州へと旅に出ると、この旅を支援した人々への土産として、風景の色紙絵を贈っている。植物をクローズアップした《ずしの花》の大胆な構図や、躍動感ある波を捉えた《足摺狂濤》の鮮やかな色彩など、温暖な地域ならではの題材を描いたこれらの色紙絵には、明るい色彩と開放的な光が満ち、画風の転換を見てとることができる。
第3章では、奄美時代の一村に着目。50歳で単身奄美大島に移った一村は、一旦は千葉に戻るものの、晩年にいたるまでこの地に住まい、亜熱帯の花鳥や風景、海の生き物などを描いた。本章では、大作《アダンの海辺》や《不喰芋と蘇鐵》をはじめ、奄美の自然を描いた作品の数々を一挙公開している。
九州・四国・紀州を旅した前後、40歳半ばを過ぎた一村は、日展や院展に出品するも、いずれも落選。画壇での成功は叶わず、画家としての生涯の行く末を思い悩んだであろう一村は、50歳の時、姉と別れ、当時日本最南端の奄美大島へと移っている。積極的に「取材」を行うも金銭的に行き詰まり、2年後には千葉に戻ることになった。この時、奄美滞在の成果として、《奄美の海に蘇鐵とアダン》などを手がけている。