奄美大島に移住し、亜熱帯の花鳥や風土を題材に絵画作品を手がけた日本画家、田中一村(たなか いっそん)。神童と称された幼年期から、奄美の地で過ごした最晩年まで、一村の画業をたどる展覧会「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」が、東京都美術館にて、2024年9月19日(木)から12月1日(日)まで開催される。
田中一村は、奄美大島の花鳥や風土を描いた、力強くも静謐な絵画でよく知られている。しかし、その名前が広く知られるようになったのは没後のこと。69年の生涯にわたって、個展などのかたちで作品を発表することなく、世俗的な成功からは縁のないなかで描くことに取り組んだのだ。
特別展「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」は、奄美・田中一村記念美術館が所蔵する代表作をはじめ、未完の大作、近年発見された初公開作品など、250件超の作品や資料を一堂に集める大回顧展。若き画家として活躍した東京時代から、長い模索期となった千葉時代、独自の画境に到達した奄美時代まで、一村の足跡を豊富な作品とともにたどってゆく。
第1章では、一村の東京時代を紹介。幼年期より絵の才能を示し、「神童」的なエピソードを残した一村は、やがて東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学するも、わずか2か月で退学している。その後、若き南画家として活躍してゆくことになった。本章では、その歩みを紹介している。
明治41年(1908年)栃木に生まれた田中一村(本名・孝)は、5歳で東京に移住。彫刻師の父から書画を学んで、「米邨(べいそん)」という号を受けている。絵の才能は、すでに数え8歳の時、「米邨」の画号で署名を入れた作品が残されていることからもうかがえるだろう。会場では、一村の作品としてもっとも早い年に描かれた《紅葉にるりかけす/雀》や《菊図》などを展示。《雀》でのまだたどたどしい筆跡が、《菊図》ではより確かなものとなっていることを見てとるれるだろう。
一村は、中学校の在学中より漢籍を学習。山水画へと学習を進め、柳や水面をみずみずしく描いた《池亭聞蛙》や、中国の画家・呉昌碩(ご しょうせき)の作品に倣い、勢いのある筆致で仕上げた《白梅図》などを手がけた。また、この頃には栃木で画会を開き、客の前で絵を描くなど、「神童」ぶりを発揮。卒業後の大正15年(1926年)には、ストレートで東京美術学校日本画家に入学するも、2か月後には「家事都合」とのことで退学している。
退学後の一村は、南画家として活躍。当時、政財界人のあいだで人気を博していた中国・清代の作風に倣って、花鳥画などを手がけた。一村の作品はやがて、力強い筆致や鮮やかな色彩を加え、独自の作風を示してゆく。片面に水墨の蘭竹図、もう片面に極彩色の牡丹図を描いた衝立は、こうした作品の例だ。このように、20歳頃の一村には、自身の個性が明確に現れつつあったのである。
20代の一村はしかし、3人の弟と両親を立て続けに亡くし、転居を幾たびと繰り返すなど、苦心することになった。この頃、自身が信じた画風が支援者の賛同を得られず、南画からは離れていったものの、新たな境地へと向かおうとしていたことが窺われる。梅や椿を入念に、色鮮やかに描きだした作品《椿図屏風》は、こうした画風の転換を印象付ける力作だ。