井浦新と瑛太ら出演、映画『光』が2017年11月25日(土)より新宿武蔵野館、有楽町スバル座ほか全国ロードショー。
原作は、『舟を編む』で本屋大賞を受賞した三浦しをんの同名小説。徹底的に人間の闇を描き、ファンの中で評価を得ている一作だ。映画『セトウツミ』、『さよなら渓谷』、『まほろ駅前』シリーズの監督・大森立嗣の手により待望の映画化が実現した。
物語の主人公は、東京の離島で暮らす中学生の信之。彼には、父親から激しい虐待を受けている、信之を慕う年下の輔(たすく)と同級生であり恋人の美花という2人の幼馴染がいる。ある日、信之は美花を救うために男を殺してしまう。しかし、そのとき津波が島に襲いかかり全てを消滅させてしまった。
それから25年後、生まれ育った東京の離島・美浜島を離れ、幸せな家庭を手にし平穏に暮らしている信之の前に、過去の影を背負った輔が現れ、止まったはずの歯車が動き出す。島を出てバラバラになった彼らのもとに、過去の罪が迫ってくる。
苛烈な人間ドラマを表現するのは、豪華なキャスト陣だ。信之役には映画のみならず、美術やファッション分野でも活躍を見せる井浦新、その幼馴染である輔役は『64-ロクヨン-』『ミックス。』などに出演する瑛太が演じる。
また、島で暮らしていたころ信之と交際し、大人になって東京で女優として成功を収めている美花は長谷川京子、夫・信之にある秘密を抱える妻・南海子は橋本マナミが演じる。2人の色気と母性は、スクリーンに吸い込まれるような熱情を放つ。
『光』で初共演を果たす井浦新と瑛太。彼らはかねてから競演を熱望していたという。本作では、2人の芝居の重なりが、一時も目を話せられないほどの緊迫感あるストーリーをもたらしている。このインタビューでは、そんな彼らが今回の役を経て感じたことを聞くと同時に、役を通して見えたそれぞれの演技へのこだわりに迫る。
小説からの実写化ですが、映画だからこそできたことは何でしょうか?
井浦:人間を通すことで、小説の時に文字から感じた世界観とはだいぶ変わっていると思います。原作で大事にするところは大事にしつつ、人間の心の奥底の部分などは原作からの質感が変わって大森監督の作品になっている。具体的になかったシーンがあったりします。
瑛太:小説はストーリーを文字から追ってしまう。今回の作品の場合はどうしてもダークな方向に気持ちが向いてしまいがちです。ストーリーそのものだけじゃなくて、抽象的な場面カットが入ることで、観る人と作品の間に余白を作り、観る人それぞれに違う角度の考えを持たせる作品になったと思います。
井浦:軸となる苛烈な人間ドラマは、原作同様きちんと描かれていますよね。三浦さんが作品を通しての問いかけたものに、大森監督のアンサーが加わった。そんなイメージです。
映画の中で、井浦さんと瑛太さんは幼馴染の役ですよね。
井浦:そうです。ただ、幼馴染と言っても、何か一線を超えてしまった2人というような雰囲気がありますね。
伸之を演じながら、時間を重ねるごとに輔への愛情が大きくなりすぎるのを感じていました。そこにはもちろん、小さな頃からいつも付き纏ってきた輔に対する怒りや憎しみもあるのでしょうけど、彼が25年ぶりに目の前に現れたからこそ、動き出した伸之の時間があったり、そこへの喜びがあったり。言葉には出ないけど、彼への愛情をいろんな形で返しているんじゃないかなとは思いました。憎しみではなくてすべてが愛情なのです。
輔はいかがでしょうか。
瑛太:輔は伸之に一貫して執拗な執着を抱いています。幼い頃から虐待を受けていて、島の中ではいつも“ゆきにい(伸之)”が守ってくれていた。それが25年経っても変わっていません。人間として神だとしか感じていない。その考えがずっと変わっていなくて。じゃあ、僕は輔としてその上で何ができるかなって。
2人の間には複雑な“感情”がありますね。
井浦:人間の愛情もそうですが、大人になっても鬼ごっこのようなことを続けているような喜び、人生の時計の針が再び動き出し、生きていると実感した。その生命観。彼らがもつこのような感情、内側からこみ上げてくる見えない“何か”が、内面的な『光』なのだと思います。
瑛太:『光』というタイトルの意味合いは、三浦しおんさんも原作を読んでも見あたらなかったと話してます。「なんで光ってタイトルにしたんだろう?」そこが面白いと思ました。きっと観たお客さんにも光があって、みんな違った風に受け取れる。余白を与えてくれる作品なんです。
演じるのは難しくなかったですか。
瑛太:僕はこの作品の中で、ただ輔としているだけだったので。難しさを感じる云々でなく、輔としていたら結果的にああなった、という感じです。現場では細かい演出があるわけではないし、ただ現場で感じるまま「とにかく“ゆきにい(伸之)”を動かしたいんだ」という気持ちで演じ続けていました。
井浦:僕は、本能的に芝居をしている感覚。でも本能的とはいっても、自分と伸之が重なる部分は見当たらないし、本来、自分の中にあるものではないと思う。伸之でいる時間は、ほとんど理性を捨ててしまっていました。
井浦さんも瑛太さんも、演技をされるときは、どこか感覚的な部分があるのでしょうか。
瑛太:僕は基本的に、前段階でそのシーンをイメージすることはなくて、現場に行ったときに、何が生まれるかなって思いながら役に向き合っています。
例えば、『光』のなかでは、「新さんに対して僕は何ができるんだろう」って。それをずっと考えながら新さんを観察したり、「僕が何か違うアクションを起こしたら、新さんは一体どういった風に心や体が動くのかな」というのをチャレンジしてみたり。
井浦:瑛太君はその通りで、常に変化球なしの真向勝負。どのシーンもどこに向かうのか、何がおこるのか、演じている僕自身も予測ができませんでした。
その真向勝負に応えた井浦さん、演じる上で大切にされていることってありますか。
井浦:僕は、演じる技術はどこかにいってしまってもいいから、とにかく「心」を掴んでいられるようにしています。テレビでも映画でも、何かを演じるということにおいて、それだけは僕の中で変わらずにありますね。