映画『Summer of 85』が2021年8月20日(金)より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマほか全国の劇場で順次公開される。
1985年夏のフランス、進路に悩む労働者階級の16歳の少年アレックス(フェリックス・ルフェーヴル)は、自然体で飄々とした18歳のダヴィド(バンジャマン・ヴォワザン)と出会い惹かれ合う。アレックスにとってはこれが初恋だった。互いを愛おしく想い合う中、ダヴィドの提案で「どちらかが先に死んだら、残された方はその墓の上で踊る」という誓いを立てることに。しかし、ダヴィドの不慮の事故によって恋焦がれた幸せな日々は突如終わりを迎える。悲しみと絶望に暮れ、生きる希望を失ったアレックスだったが、ダヴィドと交わした誓いが彼を突き動かす──。
映画『Summer of 85』の監督・脚本を務めるのは、世界三大映画祭の常連にして、世界中から新作を待ち望まれているフランス映画界の巨匠フランソワ・オゾン。同作品は、オゾン自身が17歳の時に出会い、深く影響を受けたというエイダン・チェンバーズの小説「Dance on my Grave」(おれの墓で踊れ/徳間書店)を映画化したものだ。
『Summer of 85』では、原作に感銘を受けた当時の感情を投影しながら、誰しもに訪れる初恋の衝動を映像美と巧みな演出で鮮やかに映し出したフランソワ・オゾン。映画公開にあたって、ファッションプレスではインタビューを敢行した。
Q:原作である『おれの墓で踊れ』はオゾン監督が“好きな本”だそうですね。17歳の時に初めて読んだということですが、当時、物語のどのような部分に感銘を受けたのでしょうか。
彼らの恋愛が、シンプルに美しく描かれているところに感動しました。というのも、僕が『おれの墓で踊れ』に初めて出会った1980年代は、今のように同性愛への理解も進んでおらず、映画の中でも暗い形で表現されることがほとんど。それなのに、この作品では同性愛だからという罪悪感が全くなく、少年たちの初恋が、ごく普遍的なものとして捉えられています。
Q:映画化を決意されたのも、本を読んだ17歳の時でしたか。
そうです。でも、原作を読んだときの僕は、まだ映画監督を夢見ていた段階でしたし、こんなにも素敵な作品なのだから、きっと僕が映画化する前に、誰かがやってしてしまうだろうと思っていました。
Q:なぜ“今”映画化しようと思われたのでしょうか?
前作『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』(2018年)を公開した際、作品に政治的な意味合いを含んでいたことから、フランスのカトリック協会に公開阻止を要求されるということがあり、精神的にも少し参っている状態でした。だから、今度の作品はもっと軽やかな作品にしようと。
そう考えていた時に、僕の本棚にあった『おれの墓で踊れ』が目に飛び込んできたのです。もう一度手に取って読んでみたら、あの時と同じように「好きだ」と感じたので、今回約35年越しに映画化することにしました。
Q:約35年越しの映画化ということで、さぞかし思い入れも強かったと思います。映画化するにあたって、大切にされていたことを教えてください。
『Summer of 85』は、何かに傷ついては、何かをきっかけに復活して前に進んでいく青春の話。登場人物は皆ティーンエイジャーで、恋愛だけでなく人生において発見のある年代を生きています。
そんな誰もが経験するような青春時代のストーリーが、この作品の良さだと感じていたので、自分自身の思春期、少年時代に感じたことをそのまま表現したいと思いました。メランコリックな部分もあるけど、最後は希望的に終わるストーリーを作ろうと。もちろん初恋を描く映画として、ロマンスやノスタルジーを踏まえながら。
僕自身が見たかった“青春映画”を映像にしたのが『Summer of 85』です。
Q:『Summer of 85』だけでなく、これまでの作品にも通ずることですが、オゾン監督が焦点を当てるのは脆さのある“未完成な人物像”だと思います。なぜそのような人物にフォーカスするのでしょうか。
“自分”が形成されていない、“自分”が何者かも分かっていない、アイデンティティがあやふやな人間を、僕はとても魅力的だと思う。未熟がゆえに、必然的に“平凡な人間像”ではなくなるけれどもそれがいい。ある1人の人間が、人生のA地点からB地点に辿りつくまで、試練を乗り越えて成長していくプロセスを映像化するのが好きなんです。
Q:では、その人物たちを魅力的見せるために心掛けていることは?
とにかくキャラクターを愛すること。そのキャラクターを愛し、理解しようとすることが、映画監督をする上での前提条件だと思っています。
僕自身も、若いころは自分が何者か分からない、アイデンティティが曖昧だった時がありました。だから“彼ら”、つまり僕の描くキャラクターの気持ちに寄り添える立場にあると思いますし、寄り添いたいとも思うのです。僕が“彼ら”の気持ちを理解して描けば、今度は“彼ら”が、物語を通して感情を観客へとシェアしてくれる存在になってくれるから。