プラダ(PRADA) 青山店では、ミランダ・ジュライ(Miranda July)の個展「MIRANDA JULY: F.A.M.I.L.Y.」を、2024年5月9日(木)から8月26日(月)まで開催する。
アメリカのアーティスト、映画監督、作家である、ミランダ・ジュライ。映画作品では、初の長編映画『君とボクの虹色の世界』でカンヌ国際映画祭カメラ・ドール賞などを受賞する一方、アート作品では、2009年ヴェネチア・ビエンナーレのためにスカルプチャー・ガーデン《Eleven Heavy Things》を制作している。
展覧会「MIRANDA JULY: F.A.M.I.L.Y.」は、東京初となるジュライの個展だ。本展では、ジュライの最新作である、マルチチャンネルのヴィデオインスタレーション《F.A.M.I.L.Y. (Falling Apart Meanwhile I Love You)》を展示する。
《F.A.M.I.L.Y. (Falling Apart Meanwhile I Love You)》は、見知らぬ相手7人との、インスタグラムを通じた1年にわたるやり取りに基づく作品である。6枚のディスプレイから構成される同作において、同一の室内を背景とする各ディスプレイには、参加者の動作が、時に曖昧に切り抜かれつつ、組み合わされて映しだされる。参加者の身体は互いに独立しているはずではあるものの、時として奇妙にエロティックに呼応するようにすら思える。
この作品は、どのように作られたのだろう。ジュライは、参加者に一連の指示を出し、参加者はこれに対するリアクション動画を送り返す。この動画から、ジュライはiPhoneの自動切り抜きツールを使って参加者の姿を抽出し、これらの動作を互いに組み合わせる。時として参加者の姿が歪められるのは、切り抜きツールが身体の一部を背景と誤認するためだ。また、個々の動作の天地を自在に移動・反転して組み合わせているため、最終的にできあがる映像は、ある種の超現実的な雰囲気を湛えることになる。
このようにジュライは参加者に指示を出しているものの、彼女自身は作者と参加者のあいだに取り結ばれる権力関係に鋭敏である。ジュライは、参加者が正確に指示に準ずるのを期待するのではなく、指示自体に余白を持たせ、参加者がそれぞれに自由なリアクションを行うようしているのだ。いわば、作品制作における主体・客体という権力関係を脱臼させ、参加者それぞれから生まれる身体的なイメージに目を向けているといえる。
さて、ジュライがこの作品で着目したのが、「親密さ」であったという。確かに、映像のなかで参加者の身体が互いに呼応するかのように動くのがある種のエロティックさを湛えていると、はじめに言及しておいた。また、作者と参加者の余白のある関わり方も、その関係性に親しさをもたらしていよう。とはいえ、インスタグラムというデジタル環境を通じたやり取りが親密さを獲得するというのは、一見すると逆説的である。
この作品の制作過程を思い出そう。そこではiPhoneというデジタル機器を用い、インスタグラムという遠隔交流の場に立ちながらも、iPhoneのディスプレイに実際に触れ、自動切り抜きツールで映像を加工するという、すぐれて触覚的なステップが介在している。映像という視覚的表現でありながら、制作過程に触覚性を孕んでいるという点が、この作品の親密さの背景にある、とでもいえよう。
この、iPhoneという媒体にもう少し踏みとどまろう。スマートフォンの画面とは、映画のようなスクリーンではなく、内側から光を発するディスプレイである。「スクリーン」とはそもそも、遮ることの謂いであった。鑑賞者の後ろから投射された光を遮ることで、スクリーンの上には映像が繰り広げられる。映画館であれば、こうして光と闇とがスクリーンの表層に戯れるところに、鑑賞体験の匿名的な共同性が生まれることになる。
翻って、内側から発せられる光によって映像が映し出されるディスプレイは、テレビ、パソコン、そしてスマートフォンと小型化する。ここでディスプレイは、個人の身体へとどんどん密着してゆく。イメージを運ぶ「メディア」が「媒介」を意味するのならば、ディスプレイ上のイメージはむしろ無・媒介的な、直接的なものとなってゆく。こうして撮影される映像もまた、個々人の視線に応じた個人的なイメージである。スマートフォンという「メディア」が孕む直接性が、映像の個人性、ひいては親密さを醸しだしているのかもしれない。
展覧会「MIRANDA JULY: F.A.M.I.L.Y.」
会期:2024年5月9日(木)~8月26日(月)
会場:プラダ 青山店 6F
住所:東京都港区南青山5-2-6
時間:11:00〜20:00
入場料:無料
【問い合わせ先】
プラダ クライアントサービス
TEL:0120-45-1913