日本を代表する音楽家・アーティスト、坂本龍一。坂本は2000年以降、さまざまなアーティストとの協業のもと、音を空間へと立体的に展開する試みを積極的に行ってきた。坂本のサウンド・インスタレーションの代表作、未発表の新作を一堂に集め、音をめぐる坂本の創作を紹介する展覧会「坂本龍一|音を視る 時を聴く」が、東京都現代美術館にて、2024年12月21日(土)から2025年3月30日(日)まで開催される。
音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)」で人気を博し、『戦場のメリークリスマス』や『ラストエンペラー』などの映画音楽でも世界的に知られる坂本龍一。坂本はテクノロジーに関心を抱き、1990年代からはマルチメディアを駆使したライブパフォーマンスを行うほか、2000年代からは、ダムタイプ(Dumb Type)の高谷史郎やカールステン・ニコライといったアーティストとともに、インスタレーションを手がけてきた。
企画展「坂本龍一|音を視る 時を聴く」は、2023年にこの世を去った坂本が東京都現代美術館のために残した展覧会構想を軸に、坂本が携わったサウンド・インスタレーションを紹介。坂本が長年にわたって関心を抱いてきた「音」と「時間」をテーマに、新作・代表作約10点を美術館の屋内外に展開する。
本展で発表される新作が、坂本が高谷史郎とともに手がけた《TIME TIME》だ。水面を舞台に、3面の映像ディスプレイから構成される同作は、坂本・高谷の舞台作品『TIME』をもとに、インスタレーションへと発展させたものである。
インスタレーションのもととなった『TIME』は、坂本が「時間とは何か」という問いを表現した作品だという。夏目漱石『夢十夜』の第一夜や能の『邯鄲(かんたん)』などを着想源とする同作は、2021年、ダンサーの田中泯と笙奏者の宮田まゆみを迎えて初演された。
『TIME』の着想源について概観しておこう。「こんな夢を見た」という書き出しから始まる『夢十夜』第一夜は、よく知られている。死ぬ間際の女性に、死んだら墓に埋めて、そこで「百年待っていて下さい」と頼まれた「自分」は、その言葉に従い、墓の横で待ち続ける。赤い日が昇っては沈むのを幾たびも目にするなか、やがてそこには白い百合の花が咲く。いつの間にか、女性が言う百年は来ていたのだ。
一方、能『邯鄲』は、粟が煮える間に一生の夢を見てしまうという、人生の儚さをたとえた中国の故事を踏まえたもの。ある男が宿屋で与えられた「邯鄲の枕」で眠ると、夢のなか、出世して栄華を極める。しかし、50年を経たところで夢から覚めると、宿屋の女主人が粟飯を炊いた間のことであった、という筋である。
このように『TIME』では、一瞬と永遠、束の間の眠りと夢のなかの歳月など、異なる位相にある時間が交錯し、時計がチクタクと一定のリズムで刻むような絶対的な時間が問い直されているように思われる。
坂本は、「非同期性」を探求して2017年に発表したアルバム『async』に寄せて、「始まりがあって終わりがあるようなひとつの時間ではなくて、複数の時間が同時に進行しているような音楽はできないか」と語っている。音楽はしばしば「時間芸術」だと言われるように、始まりがあって、楽器の響きが絡まりあいつつ進行し、終わりを迎えるというように、時間的にリニアに進むものだと捉えられてきたからだ。「時間とは何か」という問いは、こうした問題意識が発展したものだといえるだろう。
本展で発表される新作《TIME TIME》は、宮田まゆみが笙を奏でる映像を高谷が撮り下ろし、これに『TIME』の田中泯の映像などを組み合わせて構成。3画面の映像を行き交うように坂本の音楽が流れる作品となっている。このように、リニアな時間にとらわれない鑑賞体験は、高谷とともに手がけられた代表作《LIFE-fluid,invisible, inaudible...》などでも感じることができるだろう。
先にふれたアルバム『async』は、本展で展示される幾つかの作品のもととなっている。坂本は、このアルバムを「立体的に聴かせる」ことを意図して、高谷史郎、アピチャッポン・ウィーラセタクン、Zakkubalanらとともにインスタレーションを制作したのだ。本展では、この3組との作品を目にすることができる。
そのうち、高谷とのコラボレーションによる《async-immersion tokyo》は、横長の大型ディスプレイに映像が紡がれ、ほぐれ、アルバムの音と同期することなく表情を変化してゆく作品。高谷は、『async』の楽曲を使ったインスタレーションをたびたび制作してきた。本展で再構成された《async-immersion tokyo》は、坂本の没後、これまでの「async」シリーズを深化させたものとなっている。
坂本は、アルバム『async』を制作する際、音楽を「とても抽象的に考えて、抽象的に作る」ことをなるべくやめて、「モノの音」を取り出す、「モノが発する音や、モノの存在というもの」を自ら味わうことを、大きなテーマとしていたという。いわば、近代西洋の作曲技法に見られるように、楽器が奏でる楽音を組み立てて「作曲」するのではなく、音をありのままに「聴く」ことに目を向けているように思われる。