日本の経済は、オイルショックによる不況もあったももの、朝鮮戦争やベトナム戦争の特需にも勢いづき、高度経済成長を達成。1980年代には、日本の景気は空前の盛況、バブルを迎える。ソニー、松下(パナソニック)がハリウッドの映画会社、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収し、日本は世界でも屈指の経済大国に成長した。大量生産とその消費が定着化し、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器で、それらを手にすることが、皆の憧れだった時代は終わりを告げた。
製品で満たされ、みんなが同じものを持つようになると、次に求めるものは「他とは違うもの」。モノを作ることが目的ではなくなり、多種類、少量生産、ライフスタイルや価値観に合わせてモノを作ることが求められた。過去にアメリカでフォードの自動車が、ゼネラルモーターズの多品種に逆転された現象に似ている。高度消費社会は、カルチャーやファッションにもポストモダンといわれる状況を作り出していった。
DCとはデザイナーズ&キャラクターズブランドを意味し、1980年代のポストモダンを背景に、差異化、少数派が求められる風潮の中で生まれた、デザイナーズブランドを総称したもの。流れは1970年代か始まり、80年代に本格化。原宿のマンションなどからブランドを立ち上げるマンションメーカーの登場や、パルコは新鋭ブランド(デザイナー)にもテナントを提供していた。
新鋭デザイナーは、大手量産型のアパレル企業が手を出さない個性的なデザインを発信。全てのブランドに当てはまる訳ではないが、ロンドンのモッズ、パンクなどのストリートカルチャーの影響を受けたブランドもあった。ただし、DCブランドは、ロンドンのモッズやパンクファッションとは本質的には全く異なる。カウンターカルチャー、反抗から生まれたものではないからだ。
フォークロア風のピンクハウス、ヨーロピアンテイストのニコル、サブカルチャーの影響を強く受けたタケオキクチ、コムサ・デ・モードなどが人気のブランドだった。
そしてコム デ ギャルソンとヨウジヤマモトは世界にでて衝撃を与えることになる。
DCブランドブームからは離れるが、世界にも目を向けてみると、海外ではジョルジオ・アルマーニ、ドリス・ヴァン・ノッテン、ドルチェ&ガッバーナ、ナンバーナインなどのデザイナーの個性が全面に出たブランド、そしてディーゼルなどの経営者(デザイナー)がデザインから販売までトータルでのブランドイメージ(キャラクター)を打ち出すブランドはキャラクターズブランドと言える。
1982年パリコレクションにデビューしたヨウジ・ヤマモトとコム・デ・ギャルソン。服の既成概念を廃した独特の表現手法で世界のデザイナーに衝撃を与え「東からの衝撃」と言われた。コム・デ・ギャルソンが神秘的なイメージだとするとヨウジ・ヤマモトは立体的な構築がなされているイメージ。
そのスタイルは色彩がダーク(黒)、素材は古着のようなもので、シワシワなものや穴の空いたものや加工したものを使用。カッティングもシンプルながら大胆なカッティングで、オーバーサイズで体のラインは全く隠されてしまうものだった。当時このスタイルは「禁欲的(ストイック)」「宗教的」などと評された。
当時のプレタポルテでは「黒:ダーク」のカラーは「反抗」などを意味しあまり使用されない色であり、その色をあえて前面に打ち出した点も衝撃的。後に「黒」を前面に打ち出すファッションが世界的に流行。日本では「カラス族」などと表現された。
モデルの顔を白く塗り、奇妙な黒い服を着せて電子音の鼓動の中をランウェイを歩かせたこともあり、そのスタイルに反発する評価も多く受けた。フランスのファッション誌フィガロはコム デ ギャルソンを次のように評価しました。「これは広島だ、それも情事ぬきの。未来を暗くするボロ切れのスノビズム。」(繊維新聞参照)
不均衡に穴を開けたり、しわしわな生地を使用することは、西洋の伝統的なファッションスタイル(=体型を考慮したり調和の美意識)とは全く異なるものだった。
1970年代のセックスピストルズのパンクファッションも過去の美意識を否定したスタイルだった。しかし、社会的な反抗が背景にあったのに対して、コムデギャルソンはその様な中で生まれたものではない。むしろ、ファッションの歴史、西洋美術に向き合い、コムデギャルソンは解体実験を行ったのだ。アシンメトリーや異質な素材の組み合わせ、ボロルックなどこれまでファッションが作り上げた概念を解体し、再構築。西洋ファッションを否定したというよりは、新しい美学をもとめていた。
過去の伝統を無視するかのようなファッションスタイルの評価は賛否両論。しかしアバンギャルドかつクラッシックな独特のスタイルは徐々にクリエイティブな若手デザイナーにも受け入れらて行く。そして1980年代以降、世界を代表するファッションデザイナーへと成長。
影響を受けたデザイナーはマルタンマルジェラなどのアントワープ派のデザイナーが有名だが、ヴィクター&ロルフ、ジョン・ガリアーノ、フセインチャラヤンなどが上げられるだろう。
アズディン・アライアが1984年春夏に発表したボディコンシャス・スーツはそのシーズンの話題となり、エディター、アーティスト、モデルに絶大な支持を受けた。
ファッションの歴史を振り返るとボディにフィットしたボディコンシャス・スタイルは1950年代、1960年代にも追求されたものだったが、80年代のアライアのデザインはスカートがミニ丈、セクシーなイメージが特徴だった。
また、身体を押し込む事によってシルエット(ライン)を形成する以前の手法とは逆の発想で、アライアの女性のボディコンシャススタイルは、体のラインを際立たせることをコンセプトとしてた。そして、余計な装飾を排除し、女性の身体の美しいラインを自然に強調するものであり、体に寸分もなくフィットした。
ボディラインの美しさを際立たせるために、新しいストレッチ素材を使用。これはスポーツウェアのような着心地の良さだったことから、女性の第二の「肌」と評価された。
ボディコンシャスなスタイル、アライアの服は、これまで着飾った服よりも、自身の美しさをいっそう引き立てるのでモデルをも魅了。ナオミ・キャンベル、シンディ・クロフォードなど絶頂期にあったスパーモデルに圧倒的な支持を得る。また、アライアンのファッションショーにノーギャラで良いから出演したいと訴えるモデルも多かったと言われている。
ボディコンシャスは日本にも渡る。ボディコン・スーツを身にまとった女性たちが急増、「ジュリアナ東京」「ボディコン」という言葉に代表されるような現象を巻き起こした。