力強い色彩による絵画様式「フォーヴィスム(野獣派)」を創出し、絵画のモダニズムの展開に重要な足跡を残したことで知られるフランスの画家、アンリ・マティス。鮮やかな色彩と形態の探求を続けたマティスの軌跡を、フランス・パリのポンピドゥー・センターの所蔵作品を中心にたどる大規模回顧展「マティス展」が、東京都美術館で2023年8月20日(日)まで開催される。
「マティス展」は、世界最大規模のマティス・コレクションを擁するポンピドゥー・センターの全面的な協力のもと、日本で約20年ぶりに開催されるマティスの大規模回顧展だ。日本初公開となる初期の代表作《豪奢、静寂、逸楽》をはじめとする絵画、彫刻、ドローイング、版画、切り紙絵、そして晩年の傑作、南フランス・ヴァンスのロザリオ礼拝堂にまつわる資料を一堂に集め、マティスの仕事を多角的に紹介してゆく。
マティスは、1869年北フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジに生まれた。法律家を志していたマティスは、しかし、画家になることを決心すると、1891年パリに上京して修行を開始。はじめ、アカデミスムの画家ウィリアム・ブーグローに師事し、翌年、パリ国立美術学校で象徴主義の画家ギュスターヴ・モローのアトリエに入った。この頃手がけられた《読書する女性》は、カミーユ・コローなどの影響のもと、写実的で抑制された作風を示している。
しかし、1900年の《自画像》では、勢いのある筆致や随所に用いられた鮮やかな色彩により、画面に活気がもたらされている。また、アトリエの窓からの眺めを描いた《サン=ミシェル橋》などでは、数年後のフォーヴィスムを仄めかすような鮮やかな配色を見てとることができる。
マティスの関心は、色彩と形態が織りなす画面の調和にあった。その探求の道筋のひとつが、新印象派の筆触分割である。1904年、新印象派の中心人物ポール・シニャックの招きで南フランスのサン=トロペを訪れたマティスは、これに触発されて《豪奢、静寂、逸楽》を制作した。同作では、対象の固有色から離れて純色を使用し、点描によって明るい画面を生みだしている。しかしここで、シニャックによって提唱された新印象派の手法は従うには厳格にすぎ、点描を用いる以上、デッサンの線によって形態を保つことはできない。
線と色彩が織りなす豊かな表現力を引き出すことは、マティスが生涯にわたって取り組んだ問題であった。1905年の夏、マティスは、南フランスにある海辺の町コリウールでこの課題に正面から取り組み、力強い色彩と平面的な構図によるフォーヴィスムを生みだすことになったのだった。
フォーヴィスムの創出により、マティスは安定して制作を続けていたものの、1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると、自身の息子2人を含む周囲の人びとが動員され、マティスは孤立することになる。こうしたなか、銃後に留まることを余儀なくされたマティスは創作に打ち込み、造形上の実験を進めていった。
たとえばこの時期、コリウール滞在中のマティスは、キュビスムの画家フアン・グリス(ジュアン・グリ)と交流を重ねている。自身の娘マルグリットを描いた《白とバラ色の頭部》は、そうした経験を反映するものであり、人物を直線による幾何学的・抽象的な形態で捉えて平坦に処理する作風は、キュビスム絵画を彷彿とさせる。しかし、浮遊するように小片が浅く浮き出る明暗表現を控え、ピンクなどの色面によって厳しい画面構成をとるなど、そこにキュビスムとは異なる絵画空間を見てとることができるだろう。
1918年、マティスは南フランスのニースに拠点を移し、小ぶりな肖像や室内の情景などを題材に、数多くの作品を手がけてゆくこととなる。この時期の特徴は、絵画空間の構成などにおいて、以前と比べると伝統的なアプローチを示している点である。
こうした古典的な秩序への志向は、第一次世界大戦後のフランスにおける文化潮流のいち傾向であった。戦線、銃後ともに大きな犠牲を強いた第一次世界大戦後の「総力戦」ののち、フランスの伝統や人間性を重んじる価値観は、造形上の前衛性を求める価値観以上に影響力を持つことになった。マティスは、ピカソをはじめとする同時代の前衛画家と同様、抽象度の高い造形から離れ、古典主義的な様式へと向かったとされる。しかし、マティスにとってこの時期は、単なる保守化ではなく、これまでの自らの試みをあらためて問いなおすためのものであったようだ。
その例が、室内の人物という主題であり、異国情緒漂う「オダリスク」であった。《赤いキュロットのオダリスク》は、マティスが「オダリスク」に取り組んだ作品群の第1作である。同作では、装飾的な模様の広がる背景のもと、鮮やかな赤いキュロットを身に付けた女性が肌を露わに横たわる。とりわけ腹部まわりに顕著なように、肉付けと陰影によって確かな量感を付与し、部画面右奥から左手前へと伸びる女性の姿によって奥行きのある構図を生みだすなど、ここには自然な空間表現を見ることができる。その一方、絵画を構成する多様な色彩や形態をまとめ上げ、緊張感ある画面を作りだすことが目指されているといえる。
一連の「オダリスク」絵画のモデルとなったのは、マティス気に入りのモデルであったアンリエット・ダリカレールである。しかし、1928年に彼女が去ると、マティスはこの主題を打ち切らざるをえなくなった。こうしてマティスが依拠したのが、画業初期より敬愛していたポール・セザンヌである。1928年の《緑色の食器戸棚と静物》には、セザンヌ作品の影響を見てとることができ、1913〜17年にかけてマティスが追求した厳しい画面構成をふたたび取り入れることが試みられている。