ふたたび表現の単純化へ

マティスは1930年代、アメリカを訪れ、当時彼の最大のコレクションを持っていたアルバート・C・バーンズと会っている。この時、マティスは幅13mに及ぶ大壁画を依頼され、イーゼル絵画から大規模な装飾へと移行する契機を得たのだった。この制作に触発されて、マティスの表現はふたたび単純化の傾向を示してゆくこととなる。

この頃から晩年に至るまで、マティスの制作においては女性のアシスタントが重要な役割を担うようになる。たとえば1932年からマティスが没する1954年まで、長年にわたってその制作を支えたのが、リディア・デレクトルスカヤである。1935年の《夢》は、彼女を描いた最初の作品であり、青いソファにうつ伏せになってくつろぐデレクトルスカヤの姿が描かれている。

マティス作品には、下描きの跡や塗り重ねなど、いわば画面の不完全さをしばしば見てとることができる。《夢》においても、だらりとV字に垂れ下がった右腕の周辺に、肌色の素肌が青色から透けて見え、構図との格闘の痕跡を窺えよう。習作において画面は横に長く、横たわるデレクトルスカヤが比較的安定した構図で捉えられているものの、実際の《夢》では縦長のカンヴァスが用いられ、右腕の存在感が際立っている。この異様に長く垂れ下がる右腕、格子模様の広がる青いソファ、そして横たわる身体は、もし統一的な空間として捉えるならば互いに齟齬をきたし、それゆえに夢に落ちる曖昧な感覚が画面のなかに留めおかれているといえる。

ヴァンスの室内画

1930年代末から40年代初頭にかけて、マティスの生活には大きな変化が訪れた。1939年には、第二次世界大戦が勃発。そして1941年、マティスは重度の十二指腸がんを患い、2年間にわたってほぼ寝たきりで療養することになる。このあいだ、マティスはドローイングと挿絵を中心に取り組んだ。連作「主題と変奏」は、その成果のひとつであり、人物や静物を丹念にデッサンして対象を完全に把握したのち、それらを「変奏」して自由に描きだすという方法によって構成されている。

描くという行為を通じて対象に迫るというアプローチは、油彩でも追求された。マティスは、花瓶や花々、布地、家具など、自ら収集した品々を注意深く並べ、《緑色の大理石のテーブルと静物》や、赤色の上に複数のモチーフを放射状に配した《マグノリアのある静物》などを描いている。

1943年、ニースに空爆の危機が迫ると、マティスは近郊のヴァンスに移り住んだ。ここで手がけられたのが、最後の油彩画連作であり、「ヴァンス室内画」として知られる作品群である。ここでマティスは色彩を、その量によって質も変化する、広がり出す力を持ったものと捉えている。とりわけ、このシリーズを締めくくる作品となった《赤の大きな室内》は、力強い赤を貴重とした画面に、アトリエや窓といったマティス絵画の重要なモチーフを取り入れた大作となっている。

切り紙絵、色彩と線描の統一

ヴァンスで制作されたひとつの代表作が、のちに『ジャズ』として出版されることになる切り紙絵の連作だ。マティスが初めて切り紙絵を用いたのは、1930年代初頭、バーンズに依頼された大壁画《ダンス》に取り組んでいたときのことである。彩色した紙から形を切り抜いて画面に留め、簡単に動かせるようにすることで、画面構成と色の配置とを容易に試行錯誤することができたのだ。

1940年代初頭、手術で一命をとりとめたマティスは、ふたたび切り紙絵を用いるようになる。43年にヴァンスに移ったのちも、マティスは体調がすぐれず1日の大部分をベッドや車椅子で過ごしていたものの、切り紙絵を通して次々に形を生みだしていった。マティスにとって切り紙絵は、絵画のための実験ではなく、ほかならぬ表現手段のひとつとなったのである。

こうして、1943〜46年にかけて制作されたのが、のちに『ジャズ』へと結実する20点の切り紙絵である。彩り豊かな切り紙絵が自在に繰り広げられる同作は、マティスが長年取り組んできた形態と色彩の問題への応答のひとつであるといえ、色紙にはさみを入れて形を作るという技法によって、色彩と線描というふたつの造形要素を統合している。この切り紙絵の手法は、最晩年にマティスが携わったヴァンスのロザリオ礼拝堂においても展開されてゆくこととなったのだった。

展覧会概要

「マティス展」
会期：2023年4月27日(木)〜8月20日(日)
会場：東京都美術館 企画展示室
住所：東京都台東区上野公園8-36
開館時間：9:30〜17:30(金曜日は20:00まで)
※入室は閉室30分前まで
休館日：月曜日(5月1日(月)、7月17日(月・祝)、8月14日(月)は開室)、7月18日(火)
観覧料：一般 2,200円、大学生・専門学校生 1,300円、65歳以上 1,500円、高校生以下 無料
※日時指定予約制(無料対象の高校生以下含む)

【問い合わせ先】
TEL：050-5541-8600(ハローダイヤル)