1961年、アンドレ・クレージュが自身の名を冠したブランドを設立。
クレージュはフランスのファッションブランド。
創業者のアンドレ・クレージュ(Andre Courreges)は1923年、南フランスのナヴァール地方の中心都市ポーの町で地主の息子として生まれる。当初は土木建築学を学ぶが兵役についたことをきっかけに飛行学校で学び、44年空軍パイロットとして兵役に従事。徐々にファッションに興味を持ち出し、第2次世界大戦後にパリに出てファッションを学ぶことを決意。
1946年、パリ高等服飾産業学院に入学し、47年にジャンヌ・ラフォーリのメゾンに入りデザインの基礎を学ぶ。51年、バレンシアガのメゾンに入り、衣裳構築の美学と技術を学ぶ。61年にバレンシアガのメゾンで出会い、後に妻となるコクリーヌ・バリエールと共に独立を果たす。
61年、パリのクレベール通りにサロンを開設して独立。初コレクションのデザインは造形的で、ミニを基調とした明るいイメージで、かつ動きやすい機能性を持たせたものであった。これが 大当りとなって一躍有名になったが、最初の4シーズンはバレンシアガの影響を強受けたものであった。それ以後はソフトで軽やかな傾向が強まる。
64年秋冬、「パンタロンルック」を発表、イヴニングドレスとしてパンタロンを提案し、スポーティで機能的な傾向を強調した。「パンタロンルック」は63年にも提案していたが本格的に話題になったのはこの年。65年に「ミニ・ルック」とよばれるミニ・スカートを発表。このミニ・ルックは、それまでオート・クチュールでは表現されず最も醜い身体部分とされてきた膝頭を解放。爆発的なブームをよんだ。
65年のミニスカートの爆発的なブームに伴い、粗悪なコピーが氾濫。これに失望したクレージュは3シーズンにわたる活動を休止した。
67年、伸縮性に優れた「ボディータイツ」などを発表する。これはのちのクレージュの定番アイテムとなる。またこの年、これまで統一されていたものを3つのメゾンを分ける。内訳はオート・クチュール部門を「プロトティプ(原型)」、プレタ・ポルテ部門を「クチュール・フュチュール(未来のクチュール)」、ニットなど安価なものは「イポルベル(双曲線)」。この3つのラインを70年に、プレタポルテ「イペルボール」、オート・クチュール「プロトティープ」、ニット「マイユ」の3シリーズにする。
71年に香水部門をスタート、72年にミュンヘン・オリンピックの制服をデザイン、73年にメンズ部門「クレージュ・オム」をスタートと展開を広げていき、徐々にメゾンの体勢をオート・クチュールからプレタ・ポルテへとシフトさせてゆく。
76年、3つの部門をオート・クチュールとプレタ・ポルテの2部門にし、プレタ・ポルテ、アクセサリー、雑貨類などライセンス商品をすべて直営工場で製造する体制を採用。モードの大衆化をも推進するスタンスをとりつつ品質にもこだわる。
80年代は困難な時代となる。82年、提携企業のロレアルとの関係がもつれ、コレクションの発表ができず、徐々に財政難に陥る。その後クチュール・メゾンの呼称を失い、会社経営権とブランドの権利をイトキン社へ譲り渡してしまう。
90年代に入ると徐々に巻き返しを見せ、クレージュのブランドとしての建て直しが始まる。93年に提携会社イトキンへ譲渡した会社経営権とブランド権利を買い戻す。同年から94年はカステルバジャックによるコレクションを再開。96年には香水クレージュのブランド権利を買い戻し、翌年、香水「2020」を発売。
2015年5月、クレージュを共同経営するフレデリック・トルロタン(Frédéric Torloting)とジャック・バンジェール(Jacques Bungert)が、新たなウィメンズ・ウェアのアーティスティック・ディレクターにアルノー・ヴァイヤン(Arnaud Vaillant)とセバスチャン・メイヤー(Sébastien Meyer)を任命した。彼らは自身のブランドであるCoperniを手がけていることで知られている。
2016年1月7日、アンドレ・クレージュがこの世を去る。
2018年、新アーティスティック ディレクターにヨランダ・ツォーベル(Yolanda Zobel)が就任。彼女はジョルジオ アルマーニ、クロエなどで活躍してきた。
2020年、ヨランダ・ツォーベルが2020-21年秋冬コレクションをもって退任。
2020年9月、ニコラス・デ・フェリーチェがアーティスティック・ディレクターに就任。