1985年、ジョン ガリアーノは自身の名を冠したブランドでロンドンコレクションデビュー。
ジョン・ガリアーノ(John Galliano)はイギリスのファッションデザイナー。自身のブランド「ジョン ガリアーノ」でメンズ及びウィメンズを展開していた。
ジョン・ガリアーノは、1960年、ジブラルタル生まれ。本名はホアン・カルロス・アントニオ・ガリアーノ。父親はイギリスの海外領土であるジブラルタル出身でロンドンで配管工を営む。母親はスペイン人。6歳でジブラルタルから父の働いていたロンドンに移住。
ウィルソングラマースクールを卒業後、セントマーチンズのテキスタイル科入学(途中テキスタイル科からモード科に移籍)。84年、セントマーチンズのモード科を首席で卒業。卒業制作のコレクション「アフガニスタンとヨーロッパの理想」がロンドンのブティック「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、好評を得た。
これがきっかけで「ブラウンズ」の創業者ジョーン・バーンスタイン(Joan Burstein)がガリアーノと5年契約を結ぶ。デビュー当初はジャケットをボトムに使った「さかさまの服」、ジャケットを逆さまにそして裏返しにしに着たデザインなど、アヴァンギャルドさが話題を集めた。
85年、ロンドンコレクションでデビュー。 デリケートなバイアスカットのドレスと、オーダーメイド・スーツが高い評価を得た。
しかしその後は必ずしも順風満帆な出だしではなかった。投資家とデザインの問題でトラブルを起こしたり、あまりにも革新的過ぎて「売れない服」という烙印を押されたりした。当時、ファッションの主流はグランジファッションとミニマリズムで、対して50年代風の華やかなスタイルとテーラードの技術にこだわり続けたガリアーノの服は「売れる服」という意味では受けが悪かった。資金難でコレクションを開くことができなかったこともあるという。しかしその手法・創造力は高く評価されており、後にジバンシィのデザイナー抜擢に繋がることになる。
89年、パリ・オートクチュール協会の招待でコレクションを発表。91年、パリ・コレクションの正式メンバーに加入。コレクションの発表の場をロンドンからパリに移す。
パリに移ってもロンドン同様に資金難で友人の家で寝泊りしながら、断られながらも何度も投資家をまわり、資金の工面に走っていたと言う。また生地が買えず、作品数は17着、黒の生地しか使えずすべてブラックのウェア、モデルも有志で参加といったコレクションもあった。このようにして何とか苦難を乗り越え、90年代半ばにいよいよ転機を迎えることになる。
95年、ジバンシィが1995-96年秋冬オートクチュールコレクションを最後に自身のブランドを引退。後任として、ガリアーノが1996年春夏からジバンシィのデザイナーに大抜擢される。LVMHが大抜擢したのだが、この抜擢は始め大きな波紋を呼んだ。
96年、ジャンフランコ フェレの後を継いで、クリスチャン ディオールのデザイナーに就任。ガリアーノによるジバンシィは1996年春夏と1996年秋冬シーズンの2回のみで、アレキサンダー・マックイーンにバトンタッチした。
1997年春夏オートクチュール・コレクションからディオールのデザイナーとしてデビュー。ガリアーノは現代版ニュールックを発表。胸を強調し、細いウエスト、スカートは現代風にミニになった。ちなみに、このときのテーマは「マサイ族」。97年、「ブリティシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。通算4度目の受賞だった。
ガリアーノの活躍もあり、ディオールのプレタポルテ部門の売上げは驚異的に伸びた。
しかし2011年2月24日、バーで酒に酔い、カップルに対して差別的な発言をしたため警察に一時拘束され、ブランド「クリスチャン ディオール」および自身のブランド「ジョン ガリアーノ」を解雇される。
ブランドとしての「ジョン ガリアーノ」の後任クリエイティブ・ディレクターには、これまでブランドを支えてきたビル・ゲイテンが就任し、ブランドは一時継続したが、「ジョン ガリアーノ」としてのブランド活動はまもなく休止。
ジョン・ガリアーノは、2014年メゾン マルジェラのクリエイティブ・ディレクターに就任。バッグなどのアクセサリー、スニーカー、香水「レプリカ」がヒットし、ブランドの成長に貢献した。2024年12月、メゾン マルジェラのアーティスティック・ディレクターを退任。