1950年、ピエール カルダンが自身の名を冠してブランドを設立。
ピエール カルダン(Pierre Cardin )は1922年イタリア・ヴェネチア生まれ。17歳のとき仕立屋で働きはじめる。
フランスがドイツから解放されたことがきっかけで45年にパリへ移り当初は建築家を目指したが、パカン(パキャン)、エルザ スキャパレリ、ルロン、バルマンのブティックで働き、(約1年という短い期間でさまざまなブティックを回る)でさまざまな人脈ができたことがきっかけで、ファッションの道へ進む。
46年、クリスチャン ディオールの独立時立ち上げに参加。47年ディオールのコレクションで話題となった「ニュー・ルック」で、カルダンはタイユール(テーラード仕立て)のアトリエ主任として参画した。ちなみに当時のディオールのメゾンには、イヴ・サンローラン、ギ ラロッシュがいた。
50年より自らのアトリエを開始し、1953年にはオートクチュールを始める。自らの前衛的なスタイルでオートクチュールのブランドを立ち上げ活躍。
54年には、「バブル・ドレス」を発表。もともとファッション業界の中で才能は注目されていたが57年あたりから完全にブレーク。きっかけは「投げ縄ライン」で、大胆なドレーピングで話題となった。
66年の生地を切り取る手法の「ヌード・ルック」、幾何学的な手法で宇宙時代の感覚を表現した「コスモコール・ルック」を発表。その他にも金属製の装身具、ユニセックスの宇宙服スーツ、チュニックとタイツの組合せなどは、革命的ともいえるファッションを次々に発表していった。
カルダンは布地の魔術師と呼ばれ、アバンギャルドなスタイルで、幾何学模様や形を好み、女性的な形状を無視することも多かった。ユニセックスなスタイルにもすすみ、実験的で前衛的なものが多く、実用的でないものも多かった。
1959年には百貨店プランタン向けにプレタポルテのコレクションを発表。62年にはプランタンにカルダン・コーナーを開設。自店のオートクチュール作品のコピーを自店で作製した安価なプレタポルテを売り出すことで、新しい時代の流れをつくる。63年、紳士物既製服業者ブリルの要請で「ジュニア・コレクション」を出し、これが大当たりとなる。ブリルと提携して紳士服業界にも進出。1971年には自らの作品を発表する場として、パリに「エスパス・カルダン(Espace Pierre Cardin)」を開き、その他の芸術の発表の場にも使用した。
「ピエール カルダン」はオートクチュール及びプレタポルテの世界的ブランドとして人気を博し、またライセンス事業を拡大し、販売展開を拡大。日本では、1997年よりピエール カルダン・ジャパン株式会社(三井物産が経営の中核を運営している。)が当該ブランドのライセンス事業を行っている。こうして服だけではなくボールペン、タオル、時計などにカルダンの名が冠された商品が売りに出された。
1981年はレストラン「マキシム(Maxim's)」のオーナーとなり、ロンドン、ニューヨーク、北京に支店を開業した。このようにカルダンはビジネス的な側面でも非常に活躍した。
ライセンス拡大は、ブランドの高級感を損なう結果となり、高級ブランドとしては衰退した。現在はライセンスを減らしイメージの復権に力を入れている。ただし中国等一部の国では現在でも非常に人気があり高級ブランドとして認知されている。