大正期から昭和期にかけて、伝統的な浮世絵版画の木版技術を使用し、高い芸術性をもつ木版画制作を目指して興った「新版画」。その代表的な版画家である川瀬巴水(かわせ はすい)は、旅をこよなく愛し、日本各地の旅先や自身の故郷・東京の風景を題材に木版画を制作し続けた。この記事では、新版画とは何であるのか、そして巴水の創作活動と代表作を概観。さらに、2021年に東京・SOMPO美術館で開催される展覧会「川瀬巴水 旅と郷愁の風景」の情報も紹介する。
版元・渡邊庄三郎(わたなべ しょうざぶろう)を中心に、伝統的な木版画技術の復興と版画の普及を目指した「新版画」。その背景には、明治時代に入って、西洋からもたらされた銅版や石版、写真が浸透したことにより、江戸以来の浮世絵版画が衰退していったという状況がある。そこで、新版画が誕生することとなった背景を駆け足でたどってゆこう。
江戸時代、絵師・彫師・摺師の3者の協働によって制作された浮世絵版画は、歌舞伎の人気役者を描いた役者絵などに見るようにメディアとしての役割を果たし、庶民の人気を集めた。ここで浮世絵版画には、制作と販売を監督する「版元」が存在した。版元は浮世絵を求める庶民の需要に応じて制作の方針を決め、その下で絵師・彫師・摺師の3者が作品の制作を手がけるのだった。
明治時代においては、江戸の浮世絵版画の伝統を引き継ぎつつ、近代化がもたらす新しい社会を描く時事報道的な木版画の需要が大いに高まった。その例に、西洋世界との往来の港口となった横浜の様子を伝える横浜浮世絵、文明開化がもたらした景観や風俗などを描いた開花絵、そして西南戦争や日清戦争といった戦争の様子を伝える戦争錦絵が挙げられる。また、小林清親が手がけた「光線画」は、夕闇の風景や近代化に伴って導入された人工の光を、明暗の繊細なコントラストで表現し、従来とは異なる木版画表現を切り拓いた。
しかし、近代化が推進された明治時代は、版画・印刷の技術の過渡期であった。時代とともに、文明開化に前後して西洋から伝わった版画技術──精巧で緻密な表現が可能な銅版や大量複製に適した石版、そして写実性に秀でた写真──が浸透。多色刷り木版画は、徐々に主要なメディアとしての役割をそれらに譲ってゆく。そうしたなかで木版画は、明治時代に生まれた新聞・雑誌の挿絵、単行本の口絵や美術図版の製作、あるいは浮世絵の複製などに道を見出してゆくことになった。
メディアの転換が生じるなか、絵師・彫師・摺師の3者からなる江戸時代以来の版元制度も崩壊しつつあった。絵師は、展覧会に出品される肉筆画が重視されるようになるにつれ、版画制作者から画家へと身分の脱却を図った。一方、新聞や雑誌には活字と組み合わせて美麗な木版口絵が多く採用されたため、彫師はここに役割を見出すことに。そして残る摺師は、伝統的な三者協働体制に自らの場所を持つ。結果、かつては版元の中に収まっていた3者が異なる役割へと離散し、あるいは廃業せざるをえない状況に追い込まれたのだった。
このように明治期を通じて、メディアの需要の高まりに応じるなかでかろうじて自らの道を見出した木版画は、複製性を強く帯びるようになる。また、ヨーロッパ、ついでアメリカでは浮世絵が高い人気を誇り、浮世絵複製の需要が急激に高まるようになる一方で、日本国内においては概して認識も評価も低いというのが実情であった。
そうしたなかで版元の渡邊庄三郎は、大正4年(1915)、絵師・彫師・摺師の協働による伝統的な木版技術の復興と版画の普及を目指して「新版画」を創始。それは、複製的なメディアとなっていた浮世絵版画に、美術としての創作性と、木版画が独自に有する表現を追求するものであった。渡邊は、浮世絵が人気を集める海外もマーケットに据え、美人画、風景画、役者絵、花鳥画と幅広いジャンルで版画制作を展開。日本国内のみならず、1920年代から30年代にかけては広く欧米で受け入れられるようになったのだった。
版元・渡邊庄三郎が創始した新版画において、版画家の川瀬巴水は風景画を牽引する存在であった。ここでは、“旅情詩人”とも呼ばれた巴水の創作活動の軌跡を、木版画の代表作とともに概観してゆく。
明治16年(1883)、東京市芝区露月町に生まれた川瀬巴水(本名・文治郎)は、幼少期より絵を好んだ。画家を志した彼は日本画・洋画をともに学び、27歳の折りに近代日本画の巨匠・鏑木清方に正式に入門、「巴水」の画号を授かる。
巴水が新版画と出会うのは、大正7年(1918)のこと。同じく清方に師事していた伊東深水の連作木版画『近江八景』に感銘を受け、木版画制作に意欲を燃やした巴水は、深水の連作を手がけた版元・渡邊庄三郎のもとで風景木版画「塩原三部作」を制作したのだった。
「塩原三部作」の題材となった栃木の塩原は、巴水が幼少期より慣れ親しんだ地である。同作は《塩原おかね路》、《塩原畑下り》、そして《塩原しほがま》から構成され、これが好評を得たことから、渡邊庄三郎は風景画を巴水に任せることに。以後、巴水は生涯にわたって新版画を手がけてゆくこととなる。
巴水の制作活動の展開に移る前に技法についてふれておくと、「塩原三部作」には、渦巻状にバレンの跡を残すことで表情豊かな質感を生む「ザラ摺」が使用されている。これは渡邊版の新版画に独特の摺りで、巴水作品にも多く見ることができる。伝統的な木版画の技術において、ザラ摺は未熟とされてきたものの、渡邊はそうした伝統に固定された摺りから脱却し、木版ならではの表現として取り入れていったのだった。
さて、「塩原三部作」が好評を博した巴水は、旅先や生まれ故郷の東京を描き、風景画のジャンルで新版画をリードする存在となってゆく。巴水を版画家として決定付ける歴史的な作と評価されるのが、旅に基づく初めての連作となった『旅みやげ第一集』だ。東北や北陸、房州、塩原などに取材した同作では、海や川といった水辺、雨や月など、巴水が生涯好んで取り上げたモチーフをすでに見ることができる。