1893年、芸術雑誌『ステューディオ』の創刊号に掲載された1点の作品を契機に、ビアズリーは人気を博することとなる。それが、同年にフランス語で発表されたワイルドの戯曲『サロメ』のいち場面に着想した《おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン》だ。こうして、ビアズリーは英訳版『サロメ』の挿絵画家に抜擢されることになったのだ。
ワイルドの『サロメ』は、新約聖書における、洗礼者ヨハネの斬首の物語を題材としている——ユダヤ王ヘロデは、親戚にあたるヘロディアを妻にめとったことから預言者ヨカナーンに非難され、彼を井戸に幽閉している。そうしたなか、ヘロディアの娘である王女サロメは、ヨカナーンに恋をしてしまうも、ヨカナーンはサロメを拒むばかりである。
さて、宴の席で、ヘロデはサロメに踊りを踊るよう求める。サロメは踊りを拒否するけれども、何でも好きなものを与えてもらうという条件でこれに応じ、「7つのヴェールの踊り」を踊る。その後、褒美としてサロメが求めたのが、ヨカナーンの首だ。ヘロデは初めこれを断るものの、サロメは執拗にヨカナーンの首を求め、ヘロデはついに折れる。サロメは、銀の皿で運ばれてきたヨカナーンの首に口づけを果たすも、ヨカナーンにもはや命はない。これを目にして恐れ慄いたヘロデは、兵士に命じて、サロメを盾の下に殺させる——。
サロメが踊りの褒美にヨカナーンを斬首に追いやるという凄惨な物語は、白と黒からなるビアズリーの作品において、妖艶で鮮烈なイメージとして図像化されることになる。なかでも、『ステューディオ』に掲載された《おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン》は、サロメがヨカナーンに口づけをする瞬間を、大胆な余白を駆使しつつ効果的に表現している。
本展では、《おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン》に加えて、英訳版『サロメ』の挿絵を一挙公開。宴を抜け出したサロメが、自身をヨカナーンに引きあわせるよう隊長に迫る様子を、流線型のマントとともに描いた《孔雀の裳裾》、踊りの場面にあたる《ベリー・ダンス》、踊りの見返りとしてヨカナーンの首を手にした《踊り手の褒美》、そして口づけの場面をより洗練された構成で描いた《クライマックス》など、ビアズリーの研ぎ澄まされた世界にふれることができる。
さて、英訳版『サロメ』の挿絵には、しばしば日本風の家具が描きこまれている。その背景には、19世紀後半のヨーロッパで広まっていた日本趣味・ジャポニスムがあった。イギリスにおいても、1862年のロンドン万博で日本の品々が数多く紹介されたことを契機に、家具から陶磁器、銀器まで、多岐にわたる品に日本的な造形が取り入れられるようになった。会場では、こうした流れを代表する建築家エドワード・ウィリアム・ゴドウィンによる《コーヒー・テーブル》のほか、日本の吉祥模様を取り入れた陶磁器なども展示している。
ビアズリーとワイルドが親しく交流した期間は、短かった。実際、ワイルドは必ずしも英訳版『サロメ』の挿絵に満足してはいなかったようだ。たとえば、挿絵のひとつ《月のなかの女》には、遠景の大きな月に、ワイルドを思わせる顔が描きこまれているなど、ビアズリーの諧謔的な姿勢がにじみ出ている。そのためか、英訳版『サロメ』の発表後、ワイルドはビアズリーによる挿絵を「たちの悪い落書き」と評している。
ワイルドが思い描いていたサロメのイメージは、ビアズリーによる図像とは異なっていたものであったのだろう。本展では、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、サロメを取り上げた作品に光をあてている。
19世紀後半、サロメは男性を破滅に追いやる女性「ファム・ファタール」として、文学や美術の題材に数多く取り上げられていた。その例として、神話や聖書の題材を多く手がけた画家、ギュスターヴ・モローのサロメ像や、ワイルドの愛読書であり、モローのサロメ像の詳細な記述を含んでいるジョリス=カルル・ユイスマンス著『さかしま』などを挙げられる。会場では、モローの《牢獄のサロメ》を展示するほか、蓮の花を手に踊るサロメを官能的に描いた《サロメの舞踏》を、3月16日(日)までの期間限定で公開する。